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クラシック映画から現代まで――俳優の演技はどう変化したか

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「映画はシナリオ5割、キャスティング4割、演出1割」という言葉があります。
筆者は、個人的に「演出」の割合はジャンルと監督の作家性によってはもっと大きくなるのではないかと思うんですが、それだけ演技は重要なものと見なされているのでしょう。
映画は、撮影、編集、録音、視覚効果などの技術はもちろんのこと、シナリオも演出も時代とともに進歩してきました。演技も、もちろんそうです。ただし、演技の場合は「洗練された」とか「単純に技術的に進歩した」というよりも、「スタイルが多様化した」というべきではないかと思います。

今回は、いわゆるクラシック映画の時代から演技がどのように多様化していったかを綴っていきたいと思います。なお本記事では、いわゆる「古い映画」の特徴が濃厚にみられると思われる、1960年代半ば以前のアメリカ映画を「クラシック映画」として独断と偏見で定義づけることとします。

往年のハリウッドの演技スタイル

ハンフリー・ボガート(1899-1957)、クラーク・ゲーブル(1901-1960)、ジェームズ・スチュワート(1908-1997)、ケーリー・グラント(1904-1986)……。彼らは同世代の俳優であり、また同年代に活躍した俳優たちです。彼らはそれぞれがそれぞれに個性を持った俳優でしたが、その一方で彼らの演技には共通する特徴があります。早口気味の話し方で、身振り手振りは大げさで、セリフ回しも仰々しいのです。

映画は画づくりの面において絵画から非常に強い影響を受けています。照明の理論にレンブラント・ライティングと呼ばれるものがありますが、名前の由来は言うまでもなく画家のレンブラント・ファン・レインから来ています。また、物語や演技の面では演劇から影響を受けています。サラ・ベルナール(1844-1923)は当時における伝説的な舞台女優でしたが、1900年代に入ると舞台だけでなく映画でも等しく女優として活躍するようになります。ベルナールの演技はパントマイムを思わせるような大仰な身振りと抑揚のついたセリフ回しが特徴だったと伝わっていますが、残されたサイレント映画からもその一端が伺えます。

世界初のトーキー映画(セリフのある映画)が登場するのは1927年、『ジャズ・シンガー』という映画がその初めての作品です。それまでの映画はすべてセリフのないサイレントでした。作中で起こる出来事は、一部字幕を使って情報を補ってはいましたが、基本的にはすべて映像で伝えなければならなかったのです。そのため、おそらくベルナールのような大仰なスタイルが当時の映画と親和性が高かったのでしょう

1930年代に入るとトーキーは当たり前になりますが、演出が長い時間をかけて洗練され、姿を変えていったのと同じように演技のスタイルもすぐには変わりませんでした。1950年代前半頃までの映画を見ると、概ね演技スタイルは大仰なもので統一されています。ボガートやゲーブルのようないわゆるスターだけでなく、キャサリン・ヘプバーン(1907-2003)やローレンス・オリヴィエ(1907-1989)のような硬派かつ演技派のイメージが強かった俳優も演技は大仰で、そうした特徴はこの時代の映画と分かちがたいものとも言えそうです。

また余談ながら、この時代のスターはイメージが固定されていました。それゆえ、彼らには似たような役柄を演じることが非常に多いという特徴もあったのです。たとえばジャームズ・スチュワートは善人役でタイプキャストされていましたし、ハンフリー・ボガートは高確率でニヒルなキャラクターを演じていました。
一方で現代のスターは、トム・クルーズやブラッド・ピット、レオナルド・ディカプリオのような誰もが知っているスターも、またメリル・ストリープのような「ザ・女優」といった演技派も様々な役柄を演じるのが当たり前で、スターが同じような役ばかりやる風潮はハリソン・フォードあたりを最後に消えてしまったように思います。
シルヴェスター・スタローン、アーノルド・シュワルツェネッガー、チャック・ノリス、スティーブン・セガール、ジェイソン・ステイサム、ジャッキー・チェン、ジェット・リーなどのアクション俳優は似たような役が非常に多い印象ですが、そういう意味では彼らは往年のスターの生き残りと言えるのかもしれません。

もっとも、演技が大げさなのも、似たような役ばかりやるのも悪いことではなく、あくまでそういうスタイルと風潮だったということでしょう。スター俳優はその人が得がたい存在感を持ち合わせているからこそスター足りえるわけで、タイプキャストされるのもその人の存在感あってこそのものではないでしょうか。

メソッド派の台頭

アメリカの演技トレーナーの間では、Calm(静かな、落ち着いた)、Subtle(微妙な、繊細な)という言葉があるそうです。
往年のクラシック映画に見られる大仰な演技の源流がシェイクスピアの時代ぐらいまでさかのぼれる一方で、こちらのスタイルはだいぶ歴史が浅く、おそらくその萌芽は19世紀も終わりごろになってから、ロシアが生んだ偉大な劇作家アントン・チェーホフと俳優、演出家のコンスタンチン・スタニスラフスキーの功績によるものです。

チェーホフはシェイクスピアと並び称される大作家ですが、その作風はまるで違いました。ドラマチックそのもの、といったシェイクスピアに対してチェーホフの作品は日常を切り取ったような会話が淡々と交わされます。
スタニスラフスキーはモスクワ芸術座を結成してチェーホフ作品を上演しました。チェーホフ作品が上記のような特徴を持っているため、スタニスラフスキーが生み出したスタイルは伝統的なスタイルとは趣を異とするものでした。いわゆる静かで抑制のきいた演技で、「感情の記憶を呼び覚ます」と言われるスタイルのものです。スタニスラフスキーによる演技トレーニング方法は「スタニスラフスキー・システム」と呼ばれ、いまでも演技ワークショップや学校の演劇科等で使われています。

そのスタイルをさらに発展させたのが、20世紀のアメリカで誕生した「メソッド」です。
このメソッドは『波止場』(1954)や『エデンの東』(1955)などで知られる名演出家、映画監督だったエリア・カザンが強烈にプッシュしたもので、かいつまんで説明すると「いかにしてリアルで生々しい演技を生み出すか」という方法論です。その方法は、役柄についてじっくり考えるために自分が演じるキ
ャラクターの履歴書を考えるという基本的なものから、見た目に説得力を持たせるための肉体改造まで様々でした。

こうしたメソッド演技のメッカは、アメリカの名門俳優養成機関でニューヨークに本拠地を置くアクターズ・スタジオで、同機関から数々の“やりすぎ”といっていいほどの「なりきり俳優」が輩出されました。たとえばロバート・デ・ニーロ、ダスティン・ホフマン、メリル・ストリープ、エレン・バーンスティン、アル・パチーノ、ジェームズ・ディーン、マーロン・ブランド……。
その特徴がはっきりと姿を現し始めたのは1950年代に入ってからです。マーロン・ブランドとジェームズ・ディーンが頭角を現し始めますが、そのスタイルは特に旧スタイルの俳優と共演した映画でよりはっきりとうかがえます

1956年の映画『ジャイアンツ』には旧スタイルのロック・ハドソンやエリザベス・テイラーと並んで、メソッド派のジェームズ・ディーンが出演しています。彼らはそろって20代から60代までの役柄を一人で演じていますが、ジェームズ・ディーンの自然な老け具合が際立っています。
ロック・ハドソンが劇中で「僕らも年を取った」というセリフを口にしますが、話し方も立ち振る舞いもあまり若いころを演じるものと変わっておらず不自然さを感じるでしょう。対して、ジェームズ・ディーンは自然に老人になりきっており、メソッド演技の方法論と、この不世出のスターの天才性が際立っています。

ジェームズ・ディーンの演技の特徴は、見た目の分かりやすい部分を抽出すると「シュラグ・アンド・マンブル(肩をすぼめてもごもご言う)」というアクターズ・スタジオの流儀を忠実に守っていることです。「ハキハキした喋りで母音をはっきりと発音し、身振り手振りは大きく」という旧スタイルとは対照的な方法です。
この「シュラグ・アンド・マンブル」スタイルは現代の俳優たちにも受け継がれており、比較的最近だと、若くして世を去ったヒース・レジャーが『ブロークバック・マウンテン』(2005)で取り入れていたのもまさにこの方法です。

その後1970年代に入ると、“やりすぎ”なりきり俳優の代表格であるロバート・デ・ニーロが頭角を現し始めます。
シチリア・マフィアを演じるためにシチリアまで行ってイタリア語をマスターしたとか、ボクサーの現役時代と引退後を演じるために撮影中に減量と増量を両方やったとか、無茶なエピソードには事欠かず、こういった肉体改造アプローチはダニエル・デイ=ルイスやホアキン・フェニックス、クリスチャン・ベールなども受け継いでいます。

筆者は、おそらくこういったスタイルの変遷は演出の変化とも関係あるのではないかと考えています。

1970年代に入ると、人物がフルフィギュアで映った緩いミドルショットが続くという往年の演出はハリウッドでもほとんど見られなくなります。人物をとらえる際は、より表情がちゃんと見えるバストアップやクローズアップが効果的に使われるようになりました。顔だけ、あるいは胸から上だけが巨大なスクリーンに映るということは、それすなわち小さな動作が大きく見えるということになります。その状態で大仰な演技をすると過剰でくどく見えてしまうのですが、一方で微細な表情の変化で見せるメソッド式の演技は絶大な効果を発揮します。

演技の変化が先か、演出の変化が先かというのは、はっきり言えませんが、今日的な演出スタイルとメソッド演技は相性がいいというのは間違いありません。本稿は旧スタイルの演技を否定する意図はありませんが、スタイルの変遷が演出を進歩させ、また映画自体も進歩させたと言えなくもないでしょう。

現在の演技スタイル

デ・ニーロやマーロン・ブランドの活躍で、演技のリアリティに対する今日のハードルはとてつもなく高くなってしまいました。
しかし、だからと言って旧スタイルが死んだわけではありません。アメリカのテレビドラマを見ると、犯罪捜査ものなどのシリアスな内容のものは非常に抑えた演技のものが多いです。しかしシットコムなどでは逆に大げさな演技が多く、むしろその方がしっくりきます。またシェイクスピアのような古典演劇を映画化した作品でも旧スタイルの演技はきちんと生きており、『ハムレット』(1995)で監督、主演を務めたケネス・ブラナーの演技はこれでもかというぐらいに大仰です。

ですが、もちろん彼らはそれしかできないわけではありません。ケネス・ブラナーは自身で監督したシェイクスピア映画で古典的な演技を披露している一方、ドラマ『刑事ヴァランダー』(2008)では冴えない中年刑事をリアルに演じています。またアカデミー賞常連の大ベテラン、ジュディ・デンチも伝統スタイルの名門劇団ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの出身ですが、映画で見せる演技は非常にリアルです。同劇団出身のイアン・マッケラン、レイフ・ファインズも映画では抑えた演技を見せています。

実写映画やテレビドラマは、アニメや演劇に比べフィクションラインが低い(現実との地続き感が強い)という特徴があります。
すべてがリアルな抑えた演技である必要はないでしょうが、例えばごく普通の人々の日常を描いたホームドラマで出演者がシェイクスピア調の抑揚たっぷりの芝居や歌舞伎調の節回しの芝居をし始めたら、これは言うまでもなく不自然です。しかし、その一方でむしろ芝居がかった演技が映えるものもあります。
前述したケネス・ブラナー版の『ハムレット』はその好例ですし、近年の日本であれば大ヒットを記録した『シン・ゴジラ』(2016)がそうでした。『シン・ゴジラ』の出演者たちは日常生活では決して使うことがないであろう専門用語満載のセリフを「早口」で「滑舌よく」「まくしたてるように」話すというリアリティとは逆方向に振り切ったような芝居をしていましたが、『シン・ゴジラ』は話のスケール感が現実離れしている(現実との地続き感が弱い)ため、違和感を感じませんでした。

演技のスタイルは変遷しただけでなく、現代では作品に合わせて選択ができるようになったのです。これこそを「演技の多様化」と言うのではないでしょうか。

[参考文献]
・ロブ・グレアム『演劇の世界』佐久間康夫訳、ほんのしろ、2006年4月
・コラム「アメリカのドラマ/映画の演技になぜ人々は惹かれるのか?

Writer

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ニコ・トスカーニMasamichi Kamiya

フリーエンジニア兼任のウェイブライター。日曜映画脚本家・製作者。 脚本・制作参加作品『11月19日』が2019年5月11日から一週間限定のレイトショーで公開されます(於・池袋シネマロサ) 予告編 → https://www.youtube.com/watch?v=12zc4pRpkaM 映画ホームページ → https://sorekara.wixsite.com/nov19?fbclid=IwAR3Rphij0tKB1-Mzqyeq8ibNcBm-PBN-lP5Pg9LV2wllIFksVo8Qycasyas  何かあれば(何がかわかりませんが)こちらへどうぞ → scriptum8412■gmail.com  (■を@に変えてください)

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