「2PACの死を知ったのは、MTVだったかな」ZEEBRAとKダブシャインが語る2PAC伝記映画『オール・アイズ・オン・ミー』

「若い人たちにはピンと来ないかもしれないですけど、当時はインターネットが無いじゃないですか。だから例えば『死んじゃった』というその瞬間に訃報が駆け巡るっていう程じゃなかった。」
今なお伝説として語り継がれるカリスマ・ラッパー、2PAC。その21回目の命日となった2017年9月17日。日本のヒップホップ・シーンを牽引するZeebraは、1996年の2PACの死を思い出していた。Kダブシャインも、その衝撃を思い出す。
「9月13日に2PACが亡くなったんだけど、6日くらい前(現地時間9月7日)に撃たれて入院したじゃないですか。入院したという情報は、CISCO(レコードショップ)に(知らせが)貼ってあった記憶がある。亡くなったタイミングで、カリフォルニアの友達からも電話がかかってきて。」
アルバム総売上枚数7,500万枚を超える2PAC(本名トゥパック・アマル・シャクール)は人気絶頂の最中、25歳の若さで凶弾に倒れた。ラスベガスで友人のマイク・タイソンの試合を観戦した後の襲撃事件だった。
ラッパーであり、ハリウッドスターであり、天才詩人であり、ギャングであり、アクティビスト…2PACの壮絶な半生と知られざる真実を描く伝記映画『オール・アイズ・オン・ミー』の日本公開(2017年12月29日)に向けたイベントが、9月17日に東京都渋谷のライブハウス「WWW X」で開催、ZeebraとKダブシャインの特別トーク・セッションが開催された。

2PACがこの世を去った1996年9月、日本のヒップホップ・シーンは「さんぴんCAMP」の残響にあった。ZeebraとKダブシャインは当時キングギドラ(現KGDR)として名作『空からの力』をリリースしてから間もない。Zeebraは「とにかく忙しかった。月に10~15本くらいライブが入っていて」と振り返ると、Kダブシャインは「96年くらいは、ちょうど外タレの前座とかもやってた頃だ。EDO.G.とかデフ・スクワッドとかとやってた頃」と思い出す。
ヒップホップ東西抗争を振り返る
2PACの死を巡っては、しばしば「ヒップホップ東西抗争」が挙げられる。1990年代中頃、アメリカのヒップホップ界は西海岸と東海岸の真っ二つに割れていた。2PACを代表する西側のデス・ロウ・レコード、そしてビギー(ノトーリアス・B.I.G)やパフ・ダディ(ショーン・コムズ)ら東側のバッドボーイ・レコードが激しく対立していたのだ。
『オール・アイズ・オン・ミー』でも描かれるように、2PACとビギーの間には確かに友情があった。ステージでは共演し、プラベートでも交友関係にあった。

ある夜、仲間と共にタイムズ・スクエアのレコーディング・スタジオを訪れた2PACは、ロビーで軍服姿の2人の黒人に遭遇。この姿が親友ビギーの出身地であるブルックリン・スタイルだったため、2PACはビギーの仲間だろうと安心していたという。また、上階の踊り場からビギーの付き人の声が聞こえたことも、彼を油断させていた。「俺はブラック・コミュニティを代表する、いわば黒人の”大使”だ」と尊大な自覚もあった2PACだったが、直後その黒人らに襲撃される。5発の銃弾を受け、2発が頭部に、2発が股間に命中。そして1発は手を貫通し、太ももの動脈に直撃するも、急所は外しており意識は保った。
犯人らが立ち去るまで死んだふりを続けた2PACは、よろめく身体を引きずってエレベーターで上階に逃げ、レコーディング中のビギーらの元に辿り着いた。そもそもこの日タイムズ・スクエアに呼んだのはビギーらバッドボーイ・レコードだった。被弾した2PACが現れると、ビギーらは驚き、介抱を避けたという。奇しくも事件当日にリリースされたビギーの楽曲『Who Shot Ya?』も、2PACの疑いを買った。このことから2PACは、自分はバッドボーイ一派に襲撃されたのだとの主張を始める。バッドボーイ側はこの疑惑を真っ向から否定しており、警察の発表では犯人は単なる物取りだったとされている。
1996年6月には2PACがビギーら東側のラッパーをこき下ろすディス・ソング『Hit ‘Em Up』を発表するなど、その後の東西対立は激化の一途を辿る。同曲は、ヒップホップ・カルチャーの側面でもある”Beef”(互いにラップや楽曲でディスり合う行為を含めたラッパー同士の抗争の総称)を象徴する一曲としての声が今なお根強い。