「2PACの死を知ったのは、MTVだったかな」ZEEBRAとKダブシャインが語る2PAC伝記映画『オール・アイズ・オン・ミー』

「で、黒人の仲いい女の子がいたんだけど、2PACと割と仲良くしてた。まぁ、オンナ紹介してとかそんな事言われてたんだと思うよ。」
Zeebraからは、「そういうコネクションは俺らも持ってるよね。当時フレイヴァー・フレイヴ(パブリック・エナミー)も女の子絡みで仲良くなれたじゃん。ホラ、あの青学行ってた娘…」と、生々しいエピソードまで飛び出す。

2PACは1991年にはソロとして『2PACalypse Now』をリリースする。Kダブシャインは解説する。
「このアルバムにはShock G(デジタル・アンダーグラウンドのメンバー)がプロデュースしている曲も何曲か入っているから、割とデジタル・アンダーグラウンド時代の面影はあるんだよね。アクティビスト的な発言をラップするようにはなっていたから、東海岸のラッパーに影響を受けていたと思う。」
以降、2PACはシーンにおけるカリスマ性を確実なものにしていく。
2PACと黒人文化
2PACが当時の他のラッパーたちと明らかに違ったのは、彼がエモーショナルな意見の代弁者であったということだ。暴行事件などで乱暴者と理解されやすいが、”Keep Your Head Up”や”Brenda’s Got A Baby”、”Dear Mama”など女性賛美歌を歌うフェミニストとしての感性も持つ。2PACは、女性のために声を挙げた初めての黒人ラッパーだった。メディアが取り上げないストリートレベルの女性の闘いを芸術的なリリックで描き上げ、すぐさまアフリカ系アメリカ人男女の信頼を得た。
1992年には映画『ジュース』の出演をきっかけに、ハリウッドスターとしての道も歩み始め、頭一つ抜けた名声を獲得していく。1993年には『ポエティク・ジャスティス/愛するということ』でジャネット・ジャクソンとスクリーン共演。Kダブシャインは「俳優としての成功が音楽のキャリアを牽引したと言っても過言ではない」と分析する一方で、「(ラッパーと俳優の)二足のわらじな感じもしたから、2PACをラッパーとしてのめり込んで聴こうとはしなかったんだよね」と打ち明ける。Zeebraも「途中からは、俺は”俳優2PAC”が好きだったかも」と振り返った。

「LL・クール・Jに続くマッチョで裸なタイプのラッパー。実はそういうラッパーってそう多くない」とKダブシャインが評価すると、Zeebraも「やっぱセックス・シンボルだよね」と頷く2PACの綺羅びやかなカリスマ性は、しかし彼の真摯で知性的なアティチュードに支えられる部分も極めて大きい。『オール・アイズ・オン・ミー』でも描かれるように、2PACの母アフェニ・シャクールは黒人解放を目的として結成されたブラックパンサー党のメンバーで、黒人としての自分たちの地位向上に全身全霊を捧げていた。
2PACは幼少の頃、母アフェニから毎朝新聞の「頭のテッペンからつま先まで」読むように教育されていたという。知性こそが最大の寄る辺だったからだ。そのおかげで2PACは、ギャングの仲間とつるみ、悪さを覚えながらも、瞬発的にシェイクスピアの一文を持ち出す知性も兼ね備えていた。2PACは、ブラック・コミュニティのダークサイドから、独自の教養と道徳でショウビズ界を照らしあげたアーティストだ。2PACの唯一性について、KダブシャインとZeebraが交互に分析を語る。
Kダブシャイン「ブラックナショナリズム、人権をしっかり叩き込まれている。黒人としてアメリカでどう生きていくべきかという哲学は母親から学んでいた。」
Zeebra「屈しない精神。ちゃんとインテリジェンスを持って反抗できるスタンスは、当時の時代背景を考えると珍しい。」
Kダブシャイン「ゲトー出身の若い人たちは、親がそんなに教育熱心じゃなかったりするから、自分たちの過去や歴史をそんなに知らない。中流階級になると親が学校を出ていたりする。例えばア・ドライブ・コールド・クエスト(1988-1998に活動したニューヨークのヒップホップグループ)とかパブリック・エナミーのチャックDとかの親は本もしっかり読む方で、アクティビズムを仕込まれている。2PACもそういうタイプ。中流とはまた違うんだけども、よりハードコアなものを叩き込まれてて、それをラップで表現するのがブラック・アメリカを発展させる唯一の方法だと見つけたのでは。」