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【考察】『ブレードランナー』におけるネオンサイン論 ─なぜ僕たちはSF映画のネオンサイン景色に近未来を感じるのか

ブレードランナー 2049
『ブレードランナー 2049』コンセプトアートより。(C) 2017 Alcon Entertainment, LLC., Columbia Pictures Industries, Inc. and Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved.

去る2016年の12月、SF映画の記念碑的な作品『ブレードランナー』(Blade Runner)の続編、『ブレードランナー 2049』(Blade Runner 2049)の予告編が公開され大きな話題を呼んだことは記憶に新しい。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=haXvp8M9Cog?rel=0]

2017年の10月に全米での公開が予定されている『ブレードランナー 2049』では、前作の監督であったリドリー・スコット(Sir Ridley Scott)は製作総指揮にまわり、監督を担うのはカナダの映画監督ドゥニ・ヴィルヌーヴ(Denis Villeneuve)、彼はアメリカの作家フランク・ハーバートによるSF小説『砂の惑星』(Dune)の新たなる実写化、つまりかつてデヴィッド・リンチによって映画化された『デューン/砂の惑星』のリブート作品を監督することでも注目されている。

 

まあぼく個人的には、『ブレードランナー 2049』のメガフォンは、『エイリアン』(Alien)における『プロメテウス』(Prometheus)や『エイリアン: コヴナント』(Alien: Covenant)のように、御大リドリー・スコットが直々に握ってほしいという思いはあったのだが、今年で80歳という年齢からすれば、そろそろ自らガッチリと握るバトンの如きメガフォンも、徐々に未来の担い手へと託してゆく時期なのかもしれない。ただ『プロメテウス』の続編は『エイリアン: コヴナント』の後にまだ二作も控えているという話もあるので、そこは監督としてやりきって欲しいところではある。

『ブレードランナー』の鮮烈な近未来的ビジュアル

さて、話を『ブレードランナー』まで戻そう。前述の通り、本作品はSF映画の記念碑、あるいは金字塔とも呼ばれる作品であり、1993年にはアメリカ国立フィルム登録簿に永久保存登録もされているが、1982年の公開当時には酷評されたという話もある。まあ映画作品においては往々にあることだが、その評価や話題の切り口は実に様々だということである。

本作品で個人的に最も印象深いのは、やはり導入部で描き出される圧倒的な近未来的ヴィジュアル。上空から臨む近未来のロサンゼルス、街のいたるところから吹き出す火柱と煙、そしてその中央にタイレル社の巨大ピラミッド型建造物がそびえ立つ光景は、まさに“金字塔(ピラミッド)”と呼ばれる映画に相応しいオープニングである。

そして、さらに近未来都市的なイメージを印象付けるのが、リック・デッカードの登場するシーンにおける雨に煙る混沌とした街中の風景である。「ふたつで十分ですよ〜!」という、本作品中の名物シーンでもある屋台でのやり取りは実に奇妙でありながら、あの世界観を描き出すための重要な要素であることは間違いないし、注目すべきもうひとつの要素としてあの景色を近未来足らしめているのが、街にあふれるネオンサインや電光掲示板の存在感である。

人は、なぜ『ネオンサイン』を近未来的に感じるのか

ではなぜ、屋台で食べるうどんだったり、ネオンサインだったり、お馴染みの「強力わかもと」だったり、そんな大衆的で古めかしいものが近未来的な世界を構築しうるのかといえば、それはすでに人々の記憶の中に長くあるもの、現実世界の中ですでに強く認識のあるものだからではないのだろうか。つまりは、リアリティーのある近未来を人々の頭の中に描き出させるために必要なのは、現在からは想像もつかない未知の架空世界の事物ではなく、より現実的で日常的な現在の風景の中にある要素、あるいは懐かしい過去の風景の中にあった要素であり、それなしには成立し得ないということなのである。

もちろんリアリティーのある近未来が現在の延長線上にあるという連続性から考えれば当たり前のことにも思えるが、それ以上に、そもそも人間は見たことのあるもの、記憶にあるものしか認識が出来ない、つまり理解できないため、それを外して描いてしまうとリアリティーという点では特に、世界が想像出来ず近未来として成り立たなくなってしまうのかもしれない。
だから例えば、もし劇中に登場する食事やファッションや建造物が、もっと言えば人々の周囲に存在するあらゆるもののディテールがまったくの架空のもの、想像も出来ないようなものばかりだった場合には、あの風景はリアリティーのある近未来ではなく、ただの意味不明な架空の世界でしかなくなってしまうはずである。

もちろん作品の方向性によっては近未来の描き方が異なってくるので、リアリティーのある近未来もあれば、意図してまったく架空の難解な近未来を描くこともあるだろうし、うっかり間違って求めていたリアリティーを欠いてしまったというSF作品もあるかもしれないが…、それぞれに該当する例に関しては今回ここでは触れないのであしからず。

現在の景色の延長線上にある近未来

本作品に関しては、実際に細かに見渡してみると、その多くのディテールは現在の世界のモノであり、その組み合わせ方とわずかな近未来的スパイスによって構築されているからこその、誰もが知っているかもしれないと頭の中で信じてしまう重厚で濃密な近未来が描き出されていると感じる。それはもしかしたら物語の核とも、深く結びついている事柄かもしれない。

そしてやはり鑑賞後には、映画の冒頭、あの導入部分の圧倒的な映像がいつまでも記憶の奥底にこびり付くのである。以降いったいどれだけの作品が、どれだけの人が、もちろん現在でも『ブレードランナー』の影響を受けているかは知れないだろう。

まあ細部の偏りとして、あの近未来におけるロサンゼルスの多国籍な世界観の中で日本的な要素が際立っているのはリドリー・スコットの、あるいは制作サイドの私的な趣味の問題が大いにあるのかもしれない。あのヴィジュアルは日本の繁華街、特に大阪のネオン街をイメージしていたというような話もあるようだし、実際にリドリー・スコットは日本を舞台にした『ブラック・レイン』(Black Rain)において、特に大阪に『ブレードランナー』的な風景を求めていたそうである。しかし結果としては、大阪の街は彼が想像していたほどの混沌には達していなかったようであるが・・・。ちなみに『ブラック・レイン』の劇中でも、ネオンサイン、そしてうどんが登場している。

ぼく自身は幼い頃、大阪の繁華街にはよく連れて行かれたことがあるが、確かに夜の道頓堀界隈などは、さらに雨でも降っていれば、ブレードランナー的な世界に見えないこともないというのはわかる。そしてあの街角の輝きは日本国内で言えば、東京新宿のネオンの光ではなく、あくまで大阪道頓堀のネオンの光だという気もする。

そして『ブレードランナー』における近未来の中で、過去、現在、そして近未来という連続性を視覚的に最も担っているものとは、名物のうどんも然ることながら、やはりあのきらびやかなネオンサインの数々だということに関しては、それがまさに視覚に訴え掛けることを目的として存在するからであることだけには留まらず、あの柔らかな曲線と懐古的な輝きが、人々の記憶のどこかに、何かしらの干渉を行っているかもしれないことにだって、大きな理由があるのではないだろうか。

ちなみにネオンサインはフランス人発明家のジョルジュ・クロード(Georges Claude)によって開発され、1912年にパリ万国博覧会で初めて公開されたそうである。そして100年以上経過した現在でも、色の鮮やかさや形状の自由さなどを強みとして、繁華街の屋外看板や広告をメインとして活躍し続けている。

『ブレードランナー 2049』でも変わらず輝くネオンサイン

『ブレードランナー』の物語から30年後を描く、続編の『ブレードランナー 2049』。その予告編の最後には、繁華街を歩くライアン・ゴズリング(Ryan Gosling)が演じる新任ブレードランナー、LAPDの捜査官Kが歩いている姿が映し出されている。街にはあの日と同じように雨が降っていて、街角にはネオンサインが輝いている。ドゥニ・ヴィルヌーヴの描く近未来のロサンゼルでもまだ、ネオンサインは健在のようである。前作で描かれた“僕等の知っている”近未来が、ネオンサインと同じように新作でも変わらず存在することを願いたい。

その光が生み出されてから107年後の『ブレードランナー』、そして137年後の『ブレードランナー 2049』、映画の中の近未来でも輝き続けるネオンサインにだけ注目して作品を鑑賞してみれば、きっとまた違った輝きに気が付くかもしれない。

実はこの文章は、映画におけるネオンサインと、とあるネオンサイン・アートの記事の冒頭として書き出したのだが、いつしか『ブレードランナー』のネオンサインの光に哀れな羽虫の如く惹き付けられてしまって、結局このまま焼け死ぬことになった。そのため今回は自身の感慨を中心とした文章ではあるが、これにて幕を閉じさせて頂く。本筋として考えていた話は、また次回、別の機会に。

この文章を読んでくれた誰かが、『ブレードランナー』か、あるいはネオンサインの光をこの刹那にワケもなく、そして何となくでも欲したのなら、幸いである。

 

Writer

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MujinaMujina Tsukishiro

普段はあまり摂取しないコーヒーとドーナツを、無駄に欲してしまう今日この頃。You know, this is - excuse me - a damn fine cup of coffee.

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