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本物の「歌」はこんなにも孤独で痛い ― 最高のラブストーリーとしての『ボヘミアン・ラプソディ』

ボヘミアン・ラプソディ
© 2018 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.

村上龍の小説『コインロッカー・ベイビーズ』(講談社刊)のラストで、世界が崩壊する中、ミュージシャンのハシは新たな歌を発見する。ハシは自分の中から歌が生まれてきた喜びを抑えられない。彼は恍惚して叫ぶ。「僕の、新しい歌だ」と。

いわゆるスタジアム・ロックのコンサートを見るとき、筆者は『コインロッカー・ベイビーズ』のラストを思い出すことがある。もちろん、ほとんどのスタジアム・ロックは純粋なエンターテインメント精神に富み、健全なパフォーマンスを聴衆に届けてくれる。それはそれでいいものだ。だが、ごくたまに、何万人もの聴衆に囲まれているのに、歌声から孤独がにじみ出てしまうシンガーがいる。この人にはファンも豪華なセットも、瓦礫の山にしか見えていないのではないかと感じる瞬間がある。

フレディ・マーキュリーは間違いなく、スタジアム級のボーカリストの中でも、とびきり「孤独」を抱えていた人物だ。映画『ボヘミアン・ラプソディ』はフレディの孤独と、それを埋める愛についての物語だった。あえて陳腐に言い換えるなら、これは広義のラブストーリーである。

ボヘミアン・ラプソディ
© 2018 Twentieth Century Fox

60~70年代英国で、移民のバイセクシャルが生きること

そもそも、生い立ちからしてフレディは孤独だった。映画の序盤、若かりし日のフレディがヒースロー国際空港で働いている描写がある。同僚から「ノロノロするな、パキ(パキスタン人への蔑称)」と罵られるのだが、フレディはパキスタン人ではない。両親ともにインド人であり、出身はタンザニアのザンジバル島だ。現在ですら世界的に移民労働者への差別心は消えていない。60~70年代であれば、より風当たりも強かっただろう。虐げられた自尊心の逃げ場所として、フレディがロックスターを目指したのも納得だ。

ちなみに「フレディ・マーキュリー」とは、クイーンでの活動が本格化するにつれて改名した名前である。もともと彼の名前は「ファルーク・バルサラ」。本当に改名までしてしまうパターンこそ稀だが、ロックスターは別名を使い分けたり、芸名を名乗ったりすることは多い。自らのルーツを捨てたともいえる「改名」については賛否両論があるだろう。ただ、逆をいえば、そのような変身願望を抱かずにはいられないほど、移民がショウビジネスの世界で成功することは難しかったのだ。

しかし、ロックスターになって万々歳とはいかない。フレディは自分のセクシャリティに疑いを持つようになる。本作でも、フレディはメアリーに自分はバイセクシャルだと告白するシーンがある。ミック・ジャガー、イギー・ポップ、デヴィッド・ボウイなど、60~70年代のロックスターには両刀使いは少なくない。ただ、彼らが“刺激のある遊び”の一環だったのに対し、フレディは正真正銘のLGBTに該当する人間だった(余談だが、この違いを政治家ですら理解していない場合がある)。フレディの悩みは深刻で、だからこそ、正式なカミングアウトを行わないまま生涯を終えている。保守的な価値観が現代以上に渦巻いていた時代で、ルーツ的にも性的にもマイノリティだったフレディがいかなる孤独を抱えていたかは想像を絶する。

ボヘミアン・ラプソディ
© 2018 Twentieth Century Fox

フレディにとって大切な3つの「愛」

『ボヘミアン・ラプソディ』では、フレディにとって大切な3つの「愛」が描き出される。まずはメアリー。フレディはメアリーとの生活が破綻した後でも、彼女を隣の豪邸に住まわせ続けた。真夜中、彼女に電話をして部屋の電気を点滅させるよう促すのは、本作でもっとも切ないシーンである。何百万人、何千万人から愛されたロックスターは、一人の女性の愛をつなぎとめることに必死だった。言うまでもなく、檻に閉じ込めるような愛が長続きするわけもない。

次に、クイーンのメンバーである。フレディはソロアルバムもリリースしているが、はっきり言ってクイーンのもっとも失敗したアルバムよりも内容は下だと思う。“I Was Born To Love You”などの佳曲もあるものの、後にクイーン名義で再録したバージョンと聴き比べれば違いは一目瞭然だ。フレディという一流のボーカリストには一流のプレイヤーが必要だった。しかし、一流同士が一緒にいれば摩擦も起きる。クイーン後期はメンバー間の衝突は絶えなかったし、劇中でもかなり険悪な関係性が描かれている。ただ、イエスマンに囲まれて自分を見失っていた時期もあるフレディにとって、対等に意見をぶつけ合えるメンバーは貴重だったはずだ。

そして、最後は家族である。かつての名前を捨てたフレディと、家族の微妙な距離感が本作では示唆されている。愛のなくなったメアリーにこだわり続け、大量の猫を飼い、夜な夜なパーティーを開催するフレディは、単純にもう一度家族に囲まれたかったのではないだろうか。

徹底して“We”にこだわったロックバンド

フレディの孤独は、クイーンの音楽性からも聴き取れる。クイーンほど聴衆との一体感を追及したロックバンドは少ない。代表曲“We Will Rock You”や“We Are The Champions”はもちろん、シングル曲のほとんどが聴衆もシンガロングできるようなコーラスをそなえている。ライブ中は聴衆とのコール&レスポンスを執拗に行い、合唱を誘導する。何よりも、コーラスにおける“We”という単語の登場頻度ときたら! クイーンの音楽にある切実さ、過剰さは、誰よりも強く聴衆に歌を届けたいというフレディの欲望の現れだったのではないだろうか。

本作では、フレディによってブライアン・メイたちクイーンのメンバーが高学歴をからかわれるシーンが出てくる。しかし、フレディのまとまりがつかないほど巨大な表現願望が、しっかりとポップミュージックのスタイルに置き換えられていたのは、ブライアンたちが理論派のプレイヤーだったからだ。いがみ合いながらもフレディが生涯、クイーンとして音源制作を続けていたのはブライアンたちの重要性を身にしみて理解していたからだろう。

クイーンのラブソングは何を歌っているのか

クイーンには優れたラブソングも多い。ロックバンドがラブソングを歌うとき、往々にして歌詞はマッチョすぎるか、繊細すぎるかのどちらかである。だが、クイーンは例外的に力強くも温もりのあるラブソングを作る力に長けていた。『ボヘミアン・ラプソディ』でも歌われる“Love Of My Life”の詞を読み込んでみるといい。「人生最愛の人」に傷つけられ、捨てられ、それでもなお愛をあきらめられない心が表現されている。

クイーンのラブソングが凡百の商業的なポップチューンと違う点はここにある。中身のないラブソングはあたかも、愛がひたすら幸福なもので、失恋が究極の悲しみだというふうに歌われる。一方、フレディ・マーキュリーは悲しみや辛さも愛の一部であると誰よりも理解していた。そして、悲しみが大きいほど愛が得られる喜びも強くなるのだと知っていた。だからこそ、何度傷ついても誰かを愛することは止められない。エルヴィス・プレスリー“Can’t Help Falling In Love”や、U2“With Or Without You”と同じテーマだ。

映画『ボヘミアン・ラプソディ』は、こうしたクイーンの楽曲の本質を理解し、物語として表現している点で優れている。正直に記せば、一本の映画としてバランスが取れているとは言い難い。ラミ・マレックは健闘しているものの、やはりフレディのパフォーマンスに及んでいないのは事実だろう(ただし、ブライアン・メイ役のグウィリム・リーは異常に似ている)。それでも『ボヘミアン・ラプソディ』が観客の心に迫るのは、フレディ・マーキュリーが世界最大級の“寂しがりや”だったからこそ、世界最大級のスケールを持つラブソングを歌えたという構図を丹念に描ききれているからだ。

我が人生最愛の人

君は僕を傷つけ続ける

僕の心をズタズタにして今去っていくんだね

我が人生最愛の人よ

わかるかい

戻ってきておくれ

見捨てないでくれ

愛を僕から取り上げないで

だって愛が僕にとって何を意味するか

君は知らないのだから

(クイーン“Love Of My Life”)

映画『ボヘミアン・ラプソディ』は2018年11月9日(金)より公開中。

『ボヘミアン・ラプソディ』公式サイト:http://www.foxmovies-jp.com/bohemianrhapsody/

Writer

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石塚 就一就一 石塚

京都在住、農業兼映画ライター。他、映画芸術誌、SPOTTED701誌などで執筆経験アリ。京都で映画のイベントに関わりつつ、執筆業と京野菜作りに勤しんでいます。