地下鉄の乗客の似顔絵で大ブレイク、デヴォン・ロドリゲス日本独占インタビュー ─ 「あなたの情熱を追い続けて」

地下鉄の乗客を見事な似顔絵に描き、「あなたを描きました」と手渡す。受け取った方は驚き、喜び、感激に圧倒される人もいる。TikTokやInstagram、YouTubeで、こんな動画を見たことがある人もいるだろう。
彼の名はデヴォン・ロドリゲス(Devon Rodoriguez)。ニューヨークはブロンクス出身の27歳だ。地下鉄の乗客の似顔絵を描く動画が2020年にバズり、一躍時の人となった。フォロワー数はTikTokとInstagramを合わせて4,254万人超(Instagram874万人、TikTok3,380万人)。さらにYouTubeチャンネルの登録者数は1,130万人。画家として最多フォロワー数を持つアーティストである。
ドウェイン・ジョンソンやジャレッド・レト、マット・デイモン、さらにはバイデン米大統領まで、動画でコラボした著名人も多数。今やSNSユーザーで知らない人はいないほどの有名人となったデヴォンが、2024年3月に来日。滞在中、THE RIVERによる特別取材に応えた。
現時点までに、Webや紙媒体、テレビを含め日本のメディアでデヴォンが取材に応じたのはTHE RIVERが初であり、唯一である。波乱万丈の生い立ちや、大ブレイクの裏側、スターたちとの共演……。本邦初の貴重なインタビューをお届けする。

デヴォン・ロドリゲス アートとの出会い
デヴォン・ロドリゲスが絵を描くようになったのは、4歳の頃だった。それ以来、ずっと絵を描くのが大好きだった。「将来の夢は何ですか?」幼稚園の時に大人からそう聞かれると、デヴォンは「アーティスト」と答えていた。
絵を描くほかに、何をすればいいかわからなかった。「興味のないことには努力も情熱も注げない。でも、絵を描くことは別でした」。
アートが、デヴォンの生い立ちを支えた。「親父は、僕が3歳くらいの時に蒸発しました。ある日どこかに行ったきり、帰ってこなかった」。ひどい話でしょう、と、デヴォンは笑う。残された母がデヴォンを育てた。しかし……。
「母はとても虐待的で、僕はよく殴られていました。」
食事もろくに用意されなかった。学校で給食を食べるんだから、いいだろうと。
デヴォンが生まれ育ったブロンクスは、ニューヨークの中でも特に治安の悪い地域で、地元の人でも近づかないほど危険なエリアもある。この頃デヴォンは、街中の壁にスプレーでグラフィティアートを描いていた。この街の“アート”とはストリートのグラフィティなのであり、それがデヴォンにとっての逃げ道だったのかもしれない。13歳の時には、逮捕もされた。
ある時、デヴォンの祖母が虐待に気づいた。警察が介入し、行政が介入した。母親はデヴォンから引き離されることになり、彼は祖母と暮らすことになった。デヴォンが14歳の時のことである。
「おばあちゃんは、いつも僕を支えてくれました。ご飯をたくさん作ってくれた」。祖母はデヴォンに絵の才能があることを認めた。おまえは、絵を描くのが好きなんだね。これで描きなさい。描き続けなさい。そう言って、デヴォンにスケッチブックとペンを与えた。
スプレーからペンに持ち替え、デヴォンは絵を描くようになった。芸術に乏しいブロンクス。「お前はこの街最高のアーティストだな!」仲間からもてはやされた。自分でも才能があるのだと錯覚し、得意げになっていた。
高校進学の年になって、デヴォンはブロンクスを離れる決意をした。アート系の高校に進むため、ポートフォリオを持って入試面接に挑んだ。そこで初めて、街の外の人々のレベルの高さを知った。「ニューヨークの大きさ、レベルの違いを実感したんです」。
井の中の蛙が、大海を知った。入試の結果は不合格だった。このレベルでは入学できません。そう言われた。
その時の気持ちを「最悪だった」と、デヴォンは振り返る。結局、治安の悪い地元の高校に通わなくてはいけない。「そんな危険な高校には通いたくなかったんです」。
ところが、ブロンクスの高校でデヴォンは運命的な出会いを果たす。美術のクラスを務めるジェレミー・ハーパー先生だ。彼のスケッチブックに描かれた肖像画の数々を一目見た時、衝撃が走った。「どうして僕はグラフィティをやっていたんだろう?僕のやるべきことはコレだ!」
目指していた高校に転校したいなら、一年はがんばりなさい。ハーパー先生はデヴォンに助言した。今の技量ではいけない。半年は練習しなさい。ポートフォリオを磨きなさい。
「絶対にやってやる」。デヴォンに火がついた。「こんなところで人生を終わらせてたまるか」。ブロンクスを抜け出したい一心で、来る日も来る日も、何時間も練習を重ねた。望まない人生に支配されることに恐怖していた。
ハーパー先生の言うことは、何でも吸収した。ある時、先生のスケッチブックをめくっていると、地下鉄の乗客の絵が何枚も続いてた。「先生、何ですかこれ。奇妙ですね」。デヴォンが尋ねると、「いいや、違うんだ」と先生は答えた。「これが最高の上達方法なんだ」と。
「地下鉄の乗客は、みんな鼻の形も、目の形も、耳の形もバラバラだ。ここはニューヨーク。いろんな国の多様な人が集まっている。絵が上手くなりたいなら、地下鉄に乗りなさい。」
わかりました、やります。デヴォンは素直に聞き、地下鉄に乗った。なるほど、様々な人が乗っている。誰もかれも、違う見た目をしている。デヴォンは一心不乱に描いた。描いて、描いて、描きまくった。先生の言う通りだった。地下鉄は最高のキャンパスだ。
2年間の成長の後、デヴォンはもともと望んでいた高校への転入がついに認められた。ハイスクール・オブ・アート・アンド・デザイン学校。憧れのマンハッタン。新しい学校で、今度は油絵というものに出会った。すごい。僕もやってみたい。
「油絵がやりたいんだね?」祖母がすぐに画材屋に連れて行ってくれた。祖母は「これも、これも、これも」と、筆や絵の具を次々と持ってきた。「これで油絵を描きなさい。おまえのアートをやりなさい」。
2014年に高校を卒業した後、デヴォンの作品はギャラリーや雑誌で時々注目されることがあったが、アーティストとして十分な収入を得ていたわけではなかった。とはいえ、祖母の家で暮らしていたので、生活費もかからなかった。
2017年。デヴォンが21歳になった時、祖母が「おまえに“責任”ってものを教えよう」と、月400ドルの家賃をデヴォンに課した。「まあ、ニューヨークで家賃400ドルなんて、タダ同然です。それは自分の絵を売って支払うことができました」。祖母がご飯を作ってくれたので、食費の心配はなかった。「月の支出といえば80ドルの携帯料金と、400ドルの家賃くらいでした」。
年月が流れ、世界とデヴォンの運命を決定的に変える出来事があった。2020年、新型コロナウイルスによるパンデミックである。