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夏休みの終わりの一日を描く傑作『アメリカン・スリープオーバー』から見る、アメリカ青春映画伝統の「一夜物語」とは

僕が若ければこの町を逃げ出し

夢を深く埋めてしまうのに

今夜は死ぬほど飲み続けよう

昔の僕のように

 

故郷から遠く離れても

象撃ち銃があれば奴らを一人ずつ撃てる

でも寝転がっている僕らには

何も見つからないし

何もない

(Beirut“Elephant Gun”)

『イット・フォローズ』監督のデビュー作は思春期のお泊り会

神がかった傑作である。

アメリカン・スリープオーバー』(’10)をあなたはもう観ただろうか?昨年から都内のイベントなどで限定上映されたのを皮切りに、全国の映画館を巡り、現在ではデジタルスクリーン上でオンライン上映中だ。リアルタイムで日本の配給がつかなかった本作が遅ればせながらも鑑賞できているのは、デヴィッド・ロバート・ミッチェル監督の最新作『イット・フォローズ』(’14)が日本の映画ファンから絶賛されたからなのだろう。しかし、長編第一作目の本作を見れば、ミッチェルの才能が既にとてつもなく膨れ上がっていたことを理解してもらえるはずだ。

進級を控えた夏休み、ティーンエイジャーたちの一夜をリアルに描き出したこの群像劇には、初期のガス・ヴァン・サントやオリヴィエ・アサイヤスにも通じる渇いたリリシズム、余白を大切にした会話、細部のスコアや小物のハイセンス、何よりも魅力的過ぎる俳優陣、全てが詰まっている。映画のどこを切り取っても完璧としか言いようがない。

アメリカン・スリープオーバー

そして、本作はティーンエイジャーの「お泊り会」にまつわるお約束を詰め込み、アメリカならではの「思春期という神話」を表現している(本作の原題は“The Myth of the American Sleepover”=「アメリカのお泊り会の神話」)。ここでいうお約束とはもちろん、アメリカの青春映画群からの引用である。

アメリカ青春映画が紡いできた「一夜物語」たち

十代の一夜物語を描いたアメリカの青春映画は『アメリカン・スリープオーバー』だけではない。雛形を遡れば『アメリカン・グラフィティ』(’73)に行き当たる。ジョージ・ルーカスが自らの青春時代を振り返って監督した本作は、60年代の音楽とファッションに乗せて夏休み最後の日を描き出し、青春映画の金字塔と呼ばれるまでになった。今でも「偉大なアメリカ映画」的なアンケートを取れば、必ず上位にランクインする一作である。

批評家から大絶賛された『アメリカン・グラフィティ』だったが、公開当時の若者を楽しませてはいても「共感」を得ていたかどうかは怪しい。映画の内容はルーカスにとってのノスタルジーであって、若い観客の感覚に重なる部分が少なかったからだ。ジョン・カーペンター監督が『ハロウィン』(’78)制作秘話として「青春映画に出てくるバカな十代を殺す作品にしたかった」と述べていることからも分かるように、当時、十代の観客は意識の高い映画作家から相手にされていなかったのである。

『ハイスクールU.S.A.―アメリカ学園映画のすべて』(長谷川町蔵/山崎まどか)という名著が、真の意味での青春映画の金字塔を教えてくれる。『アメリカン・グラフィティ』のスタイルを模倣しつつ、より同時代の若者に合わせた映画として決定版となったのがジョン・ヒューズ監督『すてきな片想い』(’84)だった。一人の少女が16歳の誕生日に経験する些細で美しい出来事を描いた本作には、これまでの映画にはなかった制作者からの「若者への共感」があった。

『ハイスクールU.S.A.―アメリカ学園映画のすべて』の中でヒューズ作品の詳しい魅力は述べられているので、ここでは省略する。とにかく、ジョン・ヒューズの関わった80年代の青春映画群が、多くの映画少年に影響を与えた。そして、やがて映画作家になった彼らは自分たちで作った青春映画で「一夜物語」を拡散させていく。思春期の一晩を描いた映画や、一晩の過ごし方が物語の鍵になる映画が大量生産されるのだ。

『初体験/リッチモンド・ハイ』(’82)の脚本家として若者の代弁者となっていたキャメロン・クロウは『セイ・エニシング』(’89)で監督デビュー。卒業パーティーの夜をきっかけに冴えない青年が学園のマドンナと恋仲になっていく物語だ。頭もガラも悪い高校生たちの一夜を描いた『バッド・チューニング』(’93/リチャード・リンクレーター監督)、高校生の童貞喪失物語『アメリカン・パイ』(’99/ポール・ワイツ監督)、クラスの三軍男子版『すてきな片想い』ともいうべき『スーパーバッド 童貞ウォーズ』(’07/グレッグ・モットーラ監督)…。カルト化したものや興行的に大成功したものに絞っても書ききれないほど、「一夜物語」の系譜は脈々と流れ続けている。リンクレーターに関しては映画賞の常連になった今でも『エブリバディ・ウォンツ・サム!! 世界はボクらの手の中に』(’16)という大学の新学期が始まる前の乱痴気騒ぎをテーマにした超傑作を撮って「一夜神話」を拡散させ続けている。そして、これらの作品では舞台設定や年代に関係なく、登場人物が現代の若者にも身近に感じられるよう設計されているのが分かるだろう。大人が眉をひそめそうな、若者らしい情欲や空回りが肯定的に描かれるようになっているのだ。 

銃があれば全ては変わるけどそんなものはない

アメリカン・スリープオーバー

『アメリカン・スリープオーバー』は、これらの作品群を踏まえたうえで献上された新たな「一夜物語」だ。親のいぬまのパーティー、真夜中の水泳、失恋と恋の芽生え、そして群像劇というスタイル…。いずれも正しく青春映画の「一夜物語」をなぞらえている。しかし、勘違いしないでほしいのは本作が引用とパロディにまみれた作家の自己満足ではないということである。本作には独特のフィーリングがある。たとえば、ジョン・ヒューズの青春映画では若者たちが(手に入るかどうかは別として)欲しいものをはっきりと口にしてきた。リンクレーターの青春映画に登場するのは欲しいものさえも分かっていない愛すべきバカたちだった。

しかし、『アメリカン・スリープオーバー』の登場人物たちは欲しいものをぼんやりと思い浮かべているのに、現実に触れるのを怖れているような感覚を残している。町で見かけたブロンドの美女、嘘みたいに無邪気な双子の姉妹、少女の自分を大人にしてくれる男性、登場人物はそれぞれの相手に恋焦がれながらも、決定的に距離を縮めることはできない。だからこそ、夜を彷徨い続ける。

『アメリカン・スリープオーバー』のどこか諦念めいた手触りは、ポップでドラマティックな過去の青春映画の世界と現実を往復しているように映る。自分は作り手のそんな曖昧さを信用する。まさに挿入曲“Elephant Gun”が歌っている通りだ。一丁の銃があれば全てを変えられる。でも、そんなものがないことも分かっている。ささやかで残酷な覚醒は、十代の心情にぴったりと重なっている。大人からは絶対に手の届かない想い、だからこその「神話」なのだ。本作が80年代を舞台にしていながら、90年代以降の楽曲が平気で流れていることもまた、時代を超越した神話性を高めている。

客観性と主観性をバランスよく共存させるミッチェル監督がその後、青春映画をメタ視点で再構築した『イット・フォローズ』に向かったのはあまりにも納得できるステップアップだといえよう。

映画『アメリカン・スリープオーバー』はオンライン上の映画館「デジタルスクリーン」にて上映中

【デジタルスクリーン】ウェブサイトはこちら

アメリカン・スリープオーバー】上映ページはこちら

※デジタルスクリーンは現在パソコンでのみ視聴可能です

Writer

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石塚 就一就一 石塚

京都在住、農業兼映画ライター。他、映画芸術誌、SPOTTED701誌などで執筆経験アリ。京都で映画のイベントに関わりつつ、執筆業と京野菜作りに勤しんでいます。