『エディントンへようこそ』アリ・アスター監督 単独インタビュー解説 ─ 「ホアキンには危険なところがある、だから面白い」
『ヘレディタリー/継承』『ミッドサマー』『ボーはおそれている』のA24×アリ・アスター監督最新作、炎上スリラー映画『エディントンへようこそ』が2025年12月12日より公開だ。
物語の舞台は2020年、ニューメキシコ州の小さな町、エディントン。コロナ禍で町はロックダウンされ、息苦しい隔離生活の中、住民たちの不満と不安は爆発寸前。保安官ジョー(ホアキン・フェニックス)は、IT企業誘致で町を“救おう”とする野心家の市長テッド(ペドロ・パスカル)と“マスクをするしない”の小競り合いから対立し「俺が市長になる!」と突如、市長選に立候補する。
ジョーとテッドの諍いの火は周囲に広がっていき、SNSはフェイクニュースと憎悪で大炎上。同じ頃、ジョーの妻ルイーズ(エマ・ストーン)は、カルト集団の教祖ヴァーノン(オースティン・バトラー)の扇動動画に心を奪われ、陰謀論にハマっていく……。
物語はアリ・アスターらしい毒味に溢れながら、陰謀論や分断といった現実社会にも鋭く切り込む。主演には『ボーはおそれている』怪優ホアキン・フェニックスを再び迎え入れ、さらにペドロ・パスカルやエマ・ストーン、オースティン・バトラーをはじめとする豪華キャストが集まった。
THE RIVERでは、この作品のため来日したアリ・アスター監督に単独インタビューを敢行。『エディントンへようこそ』の意外な裏話や、過去作の続編アイデア、さらに映画作りに対する思いまで、様々な話を聞いた。
インタビューの様子はTHE RIVER公式YouTubeチャンネルでも動画で公開中だ。監督が実際にエピソードを披露する姿も合わせてお楽しみいただきたい。
『エディントンへようこそ』アリ・アスター監督 来日 単独インタビュー
──アリ・アスターさん、日本へようこそ!日本に戻ってきてどうですか?行ってみたいところはありますか?
最高です!日本が大好き。この映画を日本に持って来られて嬉しいです。(行きたいところは)今はないなぁ。前回は、東京以外だと京都、直島、富士に行きました。いい旅だったから、また行くかも。行ったことない場所なら沖縄がいいかな。
──『エディントンへようこそ』を楽しませていただきました。いつもながら、予測不能なストーリーでした。あなたの物語はいつも悪夢的で、予想外で、とてもユニークで奇妙です。そして、集団ヒステリーが描かれることも多い。そのビジョンは、コロナ禍とどのように結びついたのでしょうか?
そうですね、コロナ禍は物事がとても奇妙に感じられました。ある意味で、パンデミック中に経験したプロセスは今も続いているように思えます。まだあの中にいる。進化し、変化し、退化している。
でも僕が作りたかったのは、アメリカ社会で、そして世界中で起こっていることについての映画。つまり、みんながそれぞれ別の現実を生きるようになり、分断され、急激に原子化され、それによって人は孤立し、孤独を感じ、互いに疎外し合うようになってしまったということ。
本作は、実際にはコミュニティでもなんでもない人たちの集まりについての映画なんです。彼らは同じ場所で一緒に暮らしているが、実際には同じ次元で生きているわけではない。その結果、どうなってしまうのか?という映画です。

──本作の脚本は、コロナ禍以前から未完成状態で存在していたそうですね。コロナが全てを変えてしまう以前、どのような脚本だったのですか?
うーん、構造的な部分だけ残したんですけど、あの時はクライム映画でした。なんというか、ネオ西部劇で、クライム・スリラーという感じ。でも、興味がなくなって。そうしていたらコロナ禍になって、急に企画を立て直す方法がわかったんです。当時の世の中、当時の状況を描く内容で。
──クライム・スリラーだった当時は、主演俳優に誰を考えていましたか?
当時は、誰も考えていなかったですね。でも2020年にリライトしていた時から、頭の中にいたのはホアキンでした。特に『ボーはおそれている』をやった後でしたからね。
──ホアキンが困惑したり、精神が崩壊したりする演技は、どうしてあんなに魅力的なのでしょう?
ホアキンはとても繊細な俳優です。そして予測不能なところがあるから面白い。彼には危なっかしいところがあって、いつ何をするかわからないようなところがある。実生活でのホアキンはとても愛らしく、賢くて、誠実な人だと思います。でも、彼には危険なところがある。何か気まぐれなところがあって、それが彼を面白い役者にしているんだと思う。だから、彼は演技をしているように見えないでしょう?
──そうですね。とても自然です。
とても自然で、自発的ですよね。でも、彼とはもう2回一緒に仕事をしたからわかるんだけど、彼はかなり技巧派の俳優で、同じ演技を何度も何度も繰り返すことができる。それでいて、一度限りの演技のように見せてくれる。まるでたった一度の奇跡のように見せてくれるんですが、そうじゃないんです。何度も同じことを繰り返すと、彼自身の中で偽りになり始めてしまうけれど、彼は自分という道具を非常にうまくコントロールしているんです。

──この映画では、誰もが陰謀論などの情報に踊らされています。僕が実際のコロナ禍で覚えているのは、インターネットが世界中の人々をつなげてくれたことでした。でもこの映画はそうではありません。ネットや情報が、暗いものや混乱、邪悪なものをもたらしています。ジョーも知りたくなかった情報に苦しめられます。あなたは情報やインターネットについてどう考えますか?バベルの塔のようなものだと思いますか?
とても良い例えですね。インターネットは全てを歪めてくれました。そして究極的には、この映画はネットの中に生きている人々、ネットが小さな街をどのように侵食してきたかを描いています。ネットの論理が街を乗っ取るんです。それは混沌です。
──劇中ではデータセンターの建築が進められます。ジョーの及ばない範囲で展開されていますが、あれは何か大きなもののメタファーなのですか?
メタファーでもあるかもしれませんが、文字通りの意味もあります。あの街の郊外にデータセンターが建設中であるということが、この映画のキーポイントです。街の人々は対立させられていて、消費する情報に毒され、隣人にさえ牙を向くようになってしまう。
でも、彼らの頭上では、巨大な権力によって巨大な変化が起こっている。そして最終的には、この映画に登場するすべての人々、すべての物語が、そのデータセンターのAIに結びつく“学習用データ”として扱われているとも言えるのです。
つまり、このような問いかけです。それは一体何を生み出すのか?我々が向かう先に、一体何が与えられるというのか?と。

──あなたは以前、映画作りとはセラピーのようなもので、不安症を解放できると言っていましたね。でも、作った映画が評価されるかは誰にもわからないから、公開するときには再び不安に苛まれてしまうと。本作『エディントンへようこそ』の制作は、あなたの精神にとってどのようなプロセスとなりましたか?
まぁ、執筆はセラピーのようなものかもしれません。でも、映画を作るというのは、もっと実務的で現実的。セラピー的ではありません。どちらかというと、“労働”って感じです。そして、映画の公開は厳しいもの。何年もかけて一つの作品を作り続けて、自分の中でとてもクリアになっている。作品への想いがすごく強くなっている。
それを世界に向けて公開すると、たとえみんなに気に入られたとしても、その人たちの語る内容が、自分の感覚とズレていて気持ち悪い感じがする。だから毎作、公開すると変な気持ちになるんです。映画を公開すると、もう自分のものじゃなくなってしまう。
──手放さないといけない?
そう、手放すというのが難しい。だって、一生懸命作ってきたし、深い愛着があるから。
──まるで我が子のような?
まさに我が子。大学に行く我が子を送り出す感じ。それか、我が子が刑務所に行くような(笑)。
──『エディントンへようこそ』の続編のようなアイデアがおありだそうですね。どんなコンセプトで、実現の可能性はありますか?
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