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公人は聖人であるべきか ─ 『フロントランナー』は2019年の事件でもある

フロントランナー

映画界で多発する「過去の過ち」による失職

映画監督のジェームズ・ガンがディズニー社から解雇され、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』第3作の監督を降板したのは2018年7月のことである。周知のように、問題になったのはガン本人のツイッターだ。彼は人間の身体的特徴やレイプ事件、児童虐待などをギャグにして投稿していたのだ。最初にガンのツイートを批判したのは、政治的見解で彼と対立していた右翼系メディアだった。世間では、ガンが日頃からトランプ政権を批判していたことへの報復行為との見方が強い(詳細はこちらの記事を参照)。そういった経緯に関係なく、件のツイートを「単なる冗談」で済ませられないと感じる人は多いだろう。ただし、報道されたガンのツイートは2008年から2011年にかけてのものだった。ガンは10年前のツイートで職を失ってしまったのである。

似たような事件はアメリカで多発している。コメディアンのケヴィン・ハートは2019年2月24日(米国時間)に行われる第91回アカデミー賞で司会を務めるはずだった。そんな中、過去の同性愛差別を含んだ発言やツイートが問題視され、彼はアカデミーから謝罪を迫られる。しかしケヴィン・ハートは「自分はすでに行いを省みてきた」として謝罪を拒否、司会を辞退することになる(LGBTコミュニティには謝罪している)。ちなみに、ここで問題になった発言も10年前のものだった。

社会的な影響力を考えると、ガンやケヴィン・ハートは広義の「公人」にあてはまるだろう。そして、公人に節度ある振る舞いが求められるのは当然である。しかし、果たして公人は「聖人」にまでならなくてはいけないのだろうか? 映画『フロントランナー』(2018)もまた、そんな問いを投げかけている作品だ。

フロントランナー
The Front Runner

ゲイリー・ハートのイメージにぴったり、ヒュー・ジャックマン

1988年、民主党の上院議員、ゲイリー・ハートはアメリカ大統領選に立候補していた。下馬評は圧倒的優位、ハートは大統領の最有力候補(フロントランナー)と目されていた。それにもかかわらず、選挙中にハートがとった迂闊な行動がマイアミ・ヘラルド誌にスクープされてしまう。メディアも支持者も掌を返し、ハートの人気は失墜した。実際に起こった事件を『フロントランナー』は映画化し、ハートをヒュー・ジャックマンが演じている。ネタバレではあるものの、30年以上前の史実なので書いてしまうが、ハートは立候補を取り下げ、大統領選は共和党のジョージ・H・W・ブッシュが勝利した。

ジャックマンはオーストラリア出身だし、見た目もそれほどハートには似ていない。それでも、彼はハート役にぴったりの俳優だといえる。シドニー工科大学卒業のインテリでありながら、メディア出演した際には鼻につくような態度を一切とらない。明るく気さくな笑顔は誰からも好かれるだろう。ハンサムなルックスに甘んじず演技力を磨き、映画でも舞台でも高い評価を獲得し続けている。ジャックマンの当たり役は『X-MEN』のウルヴァリンだが、彼自身がミュータント並の超人だ。

フロントランナー ヒュー・ジャックマン

そんな完全無欠のジャックマンだからこそ、公明正大な聖人君主として愛されていたゲイリー・ハート役に説得力を持たせられた。ハートは保守的な路線を突き進んだレーガン前大統領とは対照的に、庶民に寄り添うアメリカ像を掲げていた。軍備拡大よりも教育の充実を重要視しつつ、「脱レーガノミクス」後を見据えていた政治家だったのである。レーガンの傲慢なキャラクターにうんざりしていたリベラル層を中心に、ハートは全米の人気者となっていった。

スキャンダルで転落した大統領選の「フロントランナー」

それほど期待されていた政治家だっただけに、ハートの女性スキャンダルは致命的だったといえる。はっきり言って、トランプ現大統領のような“エゴが服を着て歩いているような”タイプの政治家は、女性問題が発覚してもさほど打撃はないだろう。ツッコミを入れるポイントがほかにも多すぎるうえ、何の意外性もないからだ。しかし、ハートはクリーンなイメージが生命線だった。ハートへのバッシングは、彼に「裏切られた」と感じた人々が多かったことの証である。

映画ではスキャンダルの直後、ハートが今まで通りに選挙活動を行おうと苦心していた様子が描かれる(たとえば、ツイートが批判された後のケヴィン・ハートがそうしたように)。ハートは女性問題を些末なものだとし、大きなパーティーで経済政策についてスピーチしようとした。ところが、他の来賓からスピーチの邪魔をされる。逆上したハートは予定していなかった口論を壇上で始めてしまう。快活で頼れる大統領候補の姿はもうない。そこにいたのは、帳尻合わせに必死な一人の中年男性だった。

フロントランナー
The Front Runner

すべての“有名人叩き”に正当性はあるか?

断っておくと、『フロントランナー』は決してハートを責め、政治家の資質を問いただすような内容ではない。むしろ、ハートに同情的な描写すらある。マイアミ・ヘラルドの記者は視野の狭い小物として登場するし、ハートがマスコミから執拗に女性問題を追及される様子はあまりにも気の毒だ。もちろん、不倫は良くないし、ハートの家族は深く傷ついただろう。しかし、ハートが実現させようとしていた政策の実現と、女性問題はどれほどの関係があったというのか。

現代に『フロントランナー』が製作され、公開された意義は非常に大きい。1988年のハートをめぐる喧騒は、2019年に報じられているニュースの数々と容易に重なっていく。大前提として、社会人が重大な犯罪や背信行為を暴かれ、地位を失うのは当然だ。また、与えられた役職に見合うだけの能力がないと判明したとき、更迭されるのも仕方がない。それらを踏まえても、この世の中で大衆やマスコミが行っている“有名人叩き”のすべてが、正当な根拠をともなっているといえるのだろうか。ジェームズ・ガンは確かに、多くの人々を不快にさせた。それでも『スーパー!』(2010)や『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』(2014)が傑作映画になったのは、ガンが空気の読めないお調子者だったからだともいえるだろう。しかし、これらが公開された時点では、誰も「いい年した大人が悪ふざけをするな」とは言わなかった。

ケヴィン・ハートが差別的な発言をすぐ謝罪しなかったことについて、批判的な意見も数多く寄せられた。「とりあえず謝ってしまえばアカデミー賞の司会もできたのに」と思っている人もいるだろう。しかし、本人からすれば10年もの歳月で十分に成長し、自分は変われたのだと世間に示しているはずだ。それを見ようともせず、一方的に「謝罪しろ」と言われた絶望は想像に難くない。

価値観をアップデートするチャンスのない世の中

念のため、筆者はゲイリー・ハートやジェームズ・ガン、ケヴィン・ハートの犯した過ちを肯定しようとしているわけではない。ただ、彼らが謝罪をしたり、地位を辞したりすることが問題の解決になっているとはまったく思えないだけだ。彼らが反省し、価値観をアップデートするチャンスすら与えられずに罰を受ける世の中。ケヴィン・ハートにいたっては、すでに過去の過ちを認めて「自分は変わった」と宣言しているにもかかわらず、バッシングは止まなかった。

『フロントランナー』を、有能な政治家の悔やむべき失敗談として見てしまうと、本質的な教訓は得られない。本作は、公人は果たして聖人であるべきかどうかを観客に考えさせる映画である。そして、少なくとも映画はゲイリー・ハートを普通の男として描いた。普通の男だから過ちも犯すし、悩みもする。そんな政治家は大統領に相応しくないというのなら、「相応しい」の境界線はどこなのか?人々の多くが有名人のあら探しに夢中の時代で、『フロントランナー』は観客に複雑な余韻を残す。

映画『フロントランナー』は2019年2月1日(金)より全国ロードショー

『フロントランナー』公式サイト:http://www.frontrunner-movie.jp/

Writer

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石塚 就一就一 石塚

京都在住、農業兼映画ライター。他、映画芸術誌、SPOTTED701誌などで執筆経験アリ。京都で映画のイベントに関わりつつ、執筆業と京野菜作りに勤しんでいます。

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