人生とはプロレス、痛みを受け止め続けること『いたくても いたくても』レビュー 【SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2016上映作品】
日本人は「ガチ」や「リアル」、「生放送」という言葉が大好きである。台本のない表現にこそ、真実が詰まっているという信仰ゆえだろう。ガチを売りにしているアイドルグループのイベントが民放で生中継され、フリースタイルラップバトルの番組が好評を博しているのにも、そんな国民性が関係しているのは間違いない。
一方で、日本人は「ヤラセ」や「仕込み」といった言葉に敏感である。これだけラップが流行し、CMやバラエティーでタレントたちがラップっぽいことをやっているにも関わらず、ヒップホップミュージシャンのライブ動員は増えているわけではない。そこに日本人の明確な審査基準が見え隠れする。
何が言いたいのかというと、現代の日本人はプロレスとの相性が極端に悪い。「どうせ勝ち負けは決まってるんでしょ」、「年寄りがあんなに強いわけないでしょ」、そんな批判とまではいかない嘲笑をプロセスに浴びせる人々は多い。
そんな時代に、通販会社が宣伝に社員同士のプロレスを中継する、という映画が作られてしまった。『いたくても いたくても』は、数多の同じ呼称を持つ作品の中でも段違いに「異色作」と呼ぶに相応しい一本だ。
当然、プロレスとはいっても通販番組の延長なので使用される武器は決まって通販商品だ。傘で突撃したり、ヒーターでチョークスリーパーをきめたり、その姿はなんともアホらしい。おまけに、レスラーは全員、通販番組スタッフや司会者。要するに、プロレスの素人でしかない。受身すらおぼつかない彼らの戦いは無様だし、滑稽だ。
それでも星野は目覚める。「俺、一皮剥けそうなんだ」とつれない恋人に宣言する。
星野を駆り立てたのは、プロレスにある痛みだ。何も星野が真性のマゾだったとか、そういう話ではない。単調な毎日では味わえなかった痛みがプロレスにはあった。殴り、殴られ、他人とぶつかる喜びをそこで見つけた。定められた敗北すらも星野には愛しい。どんなにショボくても、紛れもない「男の世界」。『ロッキー』のスタローンや、『静かなる男』のジョン・ウェインのように、男には拳を交えなければ分からないことがあるのだ。ただ、本作の星野には技術も肉体も伴っていないのでカッコ悪く見えてしまうのだけれども。
「ヤラセ」と「ガチ」は両極端な概念ではない。どんなに仕組まれた勝敗だろうと、そこで感じる痛みは本物なのだ。痛みをどうやって受け止めるか、そこにこそ人間の美しさが宿る。『いたくても いたくても』の不恰好なプロレスの「リアル」は、そんな人生の意味を少しだけ教えてくれる。
『いたくても いたくても』 (C)東京藝術大学大学院映像研究科