【ネタバレ】『ジョーカー2』考察 ─ 偶像崇拝と幻滅の後日譚

この記事には、『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』のネタバレが含まれています。

『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』終盤、アーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)は前作『ジョーカー』で起こした事件の裁判で最終弁論に挑む。これまでジョーカーとしての象徴に寄りかかって生き延びてきたアーサーは、ついにその仮面を剥ぐようにして罪を認め、ジョーカーという呪縛から自身を解放する。ところが聖域たる法廷は、かつてアーサーが奨励した暴力手段によって破壊され、(ジョーカーとしてでははなく)アーサーの一世一代の独白は自動車爆弾テロの轟音と爆風によって有耶無耶にされてしまう。
信奉者によって爆撃現場から逃されたアーサーは、その後1作目の象徴的な階段の上でリー(レディー・ガガ)と再会する。“ゆとりある男”を夢見て、演じようとしてきたこの小男はついに「君なしでは生きていけない」と感情をむき出しにしたのに、リーは夢を諦めたアーサーにとっくに幻滅しており、「さようなら、アーサー」とだけ残して去る。まるで、全て勘違いだったとでも言うように。(トッド・フィリップス監督は、彼女が“アーサー”と呼ぶのはこの瞬間だけだと指摘する。)
結局のところリーは、アーサーその人ではなく、ジョーカーという象徴にしか関心がなかったのだ。この階段は前作で、アーサーからジョーカーとしての“進化”を物語ったが、今度はその下で警察が待機しており、ジョーカーからアーサーへの“退化”の象徴へと様変わりする。

しばらくしてアーサーは、アーカム・アサイラムに戻って、他の受刑者たちとテレビを見ている。看守がやってきて、訪問客だと告げる。それが誰なのかは不明だ。通路を渡っていくアーサーに、これまでアーサーの側に密かについていた若い受刑者(コナー・ストーリー)が追ってきて、ジョークを聞いてほしいと伝える。アーサーが手短にしてほしいと返すと、男はジョークのオチとして、「お前に相応しいものを」と、アーサーを刃物で刺す。妄想を生きたアーサーは現実世界の冷たく暗い廊下で見窄らしく死に、その背後では“本物の”ジョーカーとなるであろう男が、笑いながら自らの口を裂いていた……。
『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』は、アーサーその人にジョーカーの存在を否定させ、前作の熱狂は偶像崇拝に過ぎなかったことを描く。ジョーカーに一方的な憧憬と幻滅を抱いたリーを、メディアや批評家、観客に重ねるようにした。

監督のトッド・フィリップスの発言も合わせれば、我々がジョーカーだと見做していた人物は、実はずっとジョーカーではなかったということになる。「皆さんは1作目の脚本を見ていないと思いますが、最初の映画のタイトルは『ジョーカー』であって、『ザ・ジョーカー』ではありません」とフィリップスは米IGNに語っている。
「1作目の脚本も、”オリジン・ストーリー”と添え書きされていましたが、“ザ・オリジン・ストーリー”とは言われていなかったのです。つまり、これは“あの”ジョーカーではないかもしれない、“あの”ジョーカーのインスピレーションになるものかもしれない、という考えです。」
我々が知るジョーカーは知能犯でもあり、常にバットマンの一歩先を行く悪役だ。しかし本作のアーサーはそうではない。裁判では子どもじみた感情に任せて弁護士を解雇し、自己弁護を申し出た。少し法学の勉強をすれば、弁護士なんて不要だと、彼は無邪気に信じていたのだ。コミックのジョーカーはバットマンを破滅へと追いやろうとするが、本作はアーサー自らに破滅の道を歩ませた。
アーサーが、DCコミックスでバットマンの宿敵として知られるジョーカーとは異なるキャラクターである可能性は、確かに1作目当時からなされていたものだ。「1作目でみんなから“理解できない”と言われたのは、“彼はブルース・ウェインに会ったが、ブルースより30歳も年上だ。将来ジョーカーが戦う時、どれだけ老人になっているんだよ?”ということでした」とフィリップスが認めているように、アーサー・フレックがジョーカーであるとすれば、後のバットマンであるブルース少年とは年齢差があまりにも合わない。前作のラストで描かれたことは、彼の狂気がゴッサムの何者かに伝染し、その者こそが本物のジョーカーになるのではないか、とコミックファンに考察を促した。

「もしもこの続編を作っていなかったとしても、あの男がどうなるかを想像してほしいです。私たちがよく知っているジョーカーにはならないでしょう。アーサーはそういう人物ではないのです」と、フィリップスはこうした考えを認め、映画のテーマをより社会論的に押し広げている。「つまり、誰かがアイコン的存在になった時、我々はグループとして、社会として、メディアとして、あるいはそういうものとして、その人に何かを課してしまうということ。もしかしたらその人が生きられないような何かを課してしまうということです」。
無論、この大胆な試みは賛否両論を巻き起こした。『フォリ・ア・ドゥ』は1作目で積み上げたものを自ら破壊しており、その空虚との向き合い方を我々に試している。期待していたものが、期待していたものと違った時、その負い目はどこにあるのか?期待に応えられなかった方にあるのか?一方的な期待を課した方にあるのか?