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【考察】「君の名は。」における記憶と忘却、そして願望

10月某日、公開から1ヶ月半以上たった作品とは思えない混雑した劇場の中、初めて「君の名は。」を鑑賞した。
前情報をtwitterからやたらと流れてくる「女子高生と体と心が入れ替わる!」「泣ける!」程度でシャットダウンした事が功を成したおかげか、導入部よりグイグイと引き込まれ主人公瀧とヒロイン三葉の体入れ替えドタバタ青春に筆者はゲラゲラ笑いながら楽しんでいた。
しかし、中盤物語をひっくり返す大きな出来事が発覚した瞬間、筆者の痛ましい記憶が突如として蘇り、それは「ポスト311」といった概念すらをも飲み込んだこの作品に置ける物語論を考察するに至った。

【注意】

この記事には、映画『君の名は。』に関するネタバレ内容が含まれています。

「震災」と「願望」

前半のドタバタコメディは突然、彗星の落下と言う事件によって断ち切られる。あえて筆者が「ポスト311」の説明はしないでもいいだろう。
ここで物語はタイムスリップサスペンスへと移行し、大惨事を防ぐ事に主人公たちは時空を超え立ち向かっていく。
それは何かと比較される「シン・ゴジラ」のように「願望」の映画であった。
ゴジラに破壊され、蹂躙されるだけの無力な内閣において「巨災対」だけが冷静・的確に対処する様はまさに溜飲を下げた我々観客が感じた無意識の「願望」、即ち「無脳な官僚にも有能な奴はいる、有事の際はきっと我々を助けてくれるだろう」が大ヒットの要因であった事は間違いないだろう。
1995年、5才だった筆者は阪神大震災に遭遇した。
実家は全壊、長田区にあった父の店舗は全焼した。幸い身内に死者は出なかったのだが突如崩壊した日常が修復される事は無かった。毎朝思い出すあの日の悪夢に悩まされながら中学生に進学したある日、こんな考えが筆者の脳内で反復するようになった。
「もし震災の日に戻れたなら、みんなを助ける事が出来るのだろうか?」
幼稚な考えはやがて思春期男子の妄想となって、ノートに創作される一歩手前にまで膨らみ始めたのだ。まさに私の「願望」であった。
だが「現実」は違う。毎年震災の日を思い出し、死んだ人間の数だけロウソクに火が灯され、テレビでは復興・絆のオンパレード、役に立たない政府、フクシマは未だそこにある。
『貴方はは単に死ななかっただけで、「現実」は実在し続けるのだ』と。
すると筆者の幼稚な「願望」とやらは風船のようにしぼみ出し、「厨二病」「イタい」と言う言葉にカテゴライズされ、記憶のゴミ箱へと忘却されていったのだった。

この作品のテーマとは?

だが忘却された筆者の「願望」が今まさに蘇ったのだ、目の前で奔走する瀧と三葉とシンクロし、時間軸を超えて。
終盤彗星の衝突から町民を救った二人はお互いの記憶を忘却してしまう。あんなに理解し愛し合った二人なのに、何故だろう?。
この点が「シン・ゴジラ」と「君の名は。」を明確に分ける監督の物語論であると筆者は推測する。
「シン・ゴジラ」は「願望」の願望であり、「君の名は。」は悲しき「願望」の成就である。
「シン・ゴジラ」では変えられない「現実」として文字通り君臨し続ける。新たなる厄災の予感を匂わせて、
だが瀧と三葉は変えられない「現実」と戦い、糸守の人たちを救うことができた。「願望」が「現実」に勝利した瞬間である。起きるべき歴史を変えたはずなのに、お互いを忘れてしまうのは恐ろしい「現実」を知ってしまったからだろう、身を守るために忘却したのだ。
過去を忘却し、人は初めて前に歩み出す。だから最後二人は「出会った」のだ。
それこそが新海誠監督がこの作品において「ポスト311」から飛躍させた物語論ではないだろうか?監督が瀧と三葉に与えた最高の愛なのだと私は感じた。
物語におけるプロットの雑さは確かにある。しかし様々な要因をあくまでポップに纏め上げ、観客の「願望」とシンクロさせた監督の手腕はさすがであると結論づける。
映画は時として時間軸を超え、人生とシンクロする瞬間が時折存在する。
2人が出会うまで8年かかったが、私は21年かかってしまった。

Writer

中谷 直登
中谷 直登Naoto Nakatani

THE RIVER編集長。ライター、メディアの運営や映画などのプロモーション企画を行っています。お問い合わせは nakatani@riverch.jp まで。

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