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【考察レビュー】『聲の形』に視る”自分を許す”ということ

『涼宮ハルヒの憂鬱』などを製作し日本のアニメーション業界をけん引してきた京都アニメーションの最新作『聲の形』を解説します。監督は『けいおん!』の山田尚子。小学校時代に耳の不自由な転校生の西宮をいじめてしまった石田を主人公に設定し、犯してしまったかつての過ちに苦しむ高校生たちの姿を繊細に、そしてフレッシュに描きます。

【注意】

この記事には、映画『聲の形』のネタバレ内容を含みます。

http://timewarp.jp/movie/2016/07/08/83044/
http://timewarp.jp/movie/2016/07/08/83044/

コミュニケーションの難しさ

早速、物語を読み解いていきます。本作の中心的テーマはなんだったのでしょう?私は「コミュニケーション」だと思います。近年やたらと「コミュ力」が持てはやされる通り、血縁・地縁の希薄化、インターネットやSNSの普及によるヴァーチャルな人間関係の普及は「コミュニケーション」のあり方を変え、否応なく我々にその価値を考えさせます。就職活動や恋愛では「コミュ力」が勝敗を決するかのような雰囲気です(最近の「コミュ力」は他人との関わり方のうまさを測る指標というより、自己表現のみに注目した表現と取れなくもありませんが)。また世界に目を向ければ宗教や民族の違いを原因とする紛争やテロが後をたちません。多くの人にとって「コミュニケーション」が重大な関心事となっている、それが現代社会なのでしょう。こうした最近の流れにぴったり寄り添っているのが『聲の形』だと思います。

海の向こうで起きている戦争、身近なケースでいえば些細な迷惑を発端とする暴行事件や学校でのイジメのニュースを耳にするにつけ、どうしてもっと「コミュニケーション」を徹底しないのだろうと感じます。もっとしっかり話し込めば、もっと相手の言うことに耳を傾ければ、こんな悲劇は生まれなかったのに。そういうやるせない気持ち、無力に襲われることがたくさんあります。おそらくほとんどの人は「コミュニケーション」の大切さをわかっているのです。しかし、頭では理解していても、いざ自分が問題の立場に立たされてみると、なかなか実践できないのではないでしょうか。思い通りにいかないのが当たり前なのです。

『聲の形』はそういう他者と交わるもどかしさや難しさを表現した作品です。西宮の患っている難聴がその極端な象徴になっています。私は生まれてからずっと耳が使えますから、音がわからないという状態は理解できません。しかし、その恐ろしさを想像することはできます。耳が聞こえなければ、当然ながら声の調子やテンポ、リズムで相手の感情を汲み取ることができないのです。かなり苦労するだろうと思います。意外と会話における言葉のウェイトは軽くて、私たちはほとんどの情報を表情や音声に頼っています。「コミュニケーション」は繊細で難しい作業なのです。

西宮はそういった会話のツールを制限されてしまっています。しかし小学生にはそれを理解することは難しいようです。たとえわかっていても、相手のために我慢するという発想には至らず、思い通りに分かり合えないイライラをそのまま周囲に発散してしまいます。たまに大人でも同じことをしている人がいるくらいですから、ましてたくさんの人間がいる小学校で子どもたちが自主的に調和するのを期待するのにも難があります。本当は担任が調整役を担わなければならないのですが、『聲の形』では先生が何もしなかったために事態が悪化します。正直なところ、ここで先生がアクションを起こしていれば、石田も西宮も、他のみんなも苦しまずに済んだはずです。そう考えると、この先生が一番悪い気もしてきます笑

西宮が小学校時代に経験するイジメの場面では、ひたすら相互不理解によるコミュニケーション不全で事態が悪化していく様が描かれます。結局、イジメの主犯格だった石田もイジメの対象になってしまいます。その原因も悲しいものです。西宮の母親による抗議で動き出した先生によって石田は吊るし上げられてしまうのです。西宮のイジメに加担していた他の児童は自分に非難の矛先が向かうことを恐れ、自己保身に走ります。そうして石田はスケープゴートになり、新たなイジメの対象として辛い経験をすることになるのです。小学生の無邪気さとは非常に残酷なもので、自分が悪いことをしていると自覚していない、もしくはわかっていても歯止めがきかないために、とんでもなく怖いことを平気でしてしまうのです。そこに思いやりなどなく、すべてのエネルギーは自己正当化と保身に注がれます。しかし彼らを責める気になれないのも、もどかしいところです。言動は卑劣極まりないのですが、果たして未熟な小学生をどこまで非難していいのでしょうか。行為を恨むことはできても、行為者そのものを嫌いになる気にはなれません。ここもやっぱり本来は大人の出番のはずなのですが…先生はなにもしません。最後まで石田たちの問題に救いの手を差し伸べるものは現れず、彼らは傷ついたままバラバラの進路を歩みます。

“自分を許す”ということ

じつは最初に挙げた「コミュニケーション」というテーマの大半は冒頭の小学生時代のエピソードでほとんど語り尽くされているのではないかと思います。大事なことはだいたい提示されており、メインとなる高校時代のエピソードはそういった過去にどう向き合うのか、どのように折り合いをつけて前進していくか、という話になっています。では中盤以降、本作はなにを語っているのでしょうか。私はタイトルにも付けた”自分を許す”という目線からこの物語を読みました。

“自分を許す”のは尋常でなく労力を必要とする作業です。まっすぐかつての過ちと向き合い、十分に反省したと自ら認められる領域まで達しなければなりません。罪の意識が強ければ強いほどハードルが高くなります。そもそも、自分が罪を犯したことを認めなければ、”自分を許す”ところまで行きかないのです。

例えば植野や川井は”自分を許す”可能性のない人でした。なぜなら自分が悪いと知ってはいても、その過ちに正面から向き合うことはしていないからです。「嫌いなんだから辛く当たるのは仕方ない」とか「悪口までは言ってない」とか、積極的に攻撃したことに理由をつけてみたり、傍観はイジメに入らないかのように言い訳をして、罪の意識から逃れようとします。これでは本当の意味で反省することは望めません。

一方で主人公の石田は自分の過去を必要以上に責めます。ほぼ自傷行為に等しいです。たしかに彼の犯した罪は周囲の人間の生活に取り返しつかない爪痕を残し、たくさんの人を傷つけました。そのために自分は幸せになるのに値しない人間だと信じています。だから母親にお金だけ返して自殺しようとしたり、意図的に他者との関係を避けたりします。しかし、自殺なんて以ての外の逃避行為です。彼もまた自分の罪に真正面から向き合うということはしていません。無期限の有罪判決を自らに下し、同時に罪悪感から逃れたい、救われたいとも思っています。しかしその解決策に自殺を選んでしまっては何も生み出せません。それは彼だけが楽になれるだけの”逃げ”です。自殺をする最後の理由として西宮との再会を計画するあたりに、そういう気持ちが見え隠れしています。

自分の愚かさへの絶望と傷つけてしまった西宮への申し訳なさでがんじがらめに束縛されてしまっている彼を救う唯一の手段は、彼が彼自身を許すことです。すなわち「自分は幸せになる価値のない人間だ」という考えを捨てることです。すこしでも誰かに必要とされていると気づけたとき、石田は本当の意味で罪の苦しみから解放され、前に進む勇気を手に入れます。それを可能にしたのは、意外にも石田のイジメの被害者である西宮でした。もしかしたら意外でもなんでもなく、当然の帰結かもしれません。石田は西宮のまっすぐ素直で汚れのない心に感銘を受け、そんな彼女に友達として受け入れられたことによって、やっと自分を縛っていた鎖から解放されたのですから。

抜け出せないジレンマ

じつは西宮も石田と同じようなジレンマに苦しめられています。彼女をいじめたせいで人間不信に陥ってしまった石田の姿や、彼は築き上げた人間関係がガタガタになっていく悲劇を目の当たりにし、西宮は自分を責めてしまうのです。西宮は自分のせいで関わってきた人間みんなが不幸になっていると信じ込んでいます。耳の障害がある以上に、そういった自己否定の感情が彼女を幸せから遠ざけているのです。たとえば植野に指摘された通り、彼女はことあるごとに「ごめんなさい」を言います。自分がみんなの不幸の原因だと思っているから、悪くなくても謝ってしまい、余計に相手をイラつかせます。

余談ですが『ファインディング・ドリー』でも同じような描写がありました。ドリーは忘れっぽい性格のために周囲を怒らせることが多々あるようで、何であろうと最初に「ごめんなさい」が口から零れて出る、そういう性格付けがされています。人と違うことが悪いと考えるせいで、自ら無意識に否定してしまう悲哀が両作には共通していると思います。

話を戻します。ネガティヴな感情の連鎖に取り憑かれていた西宮もまた、石田の存在を通し、彼や彼を取り巻く環境に好影響を受けて自己肯定の気持ちを育んでいきます。石田と同じく”自分を許す”のです。不幸を呼び寄せる存在だと自分を呪っていた彼女は、信頼できる仲間たちに囲まれていることに気づき、なにも自己嫌悪に陥ることを止めました。いじめる側といじめられる側だった二人は、共同作業によって新しいスタート地点にたどり着くことができたわけです。

結局のところ、彼らにとって”自分を許す”とは過去の呪縛から、そして苦しみのジレンマから解放されることでした。コンプレックスや罪悪感に踏ん切りをつけて前に進むのは誰にとっても容易なことではありません。しかし『聲の形』はそういった誰にでもある暗い部分にそっと寄り添ってくれるような、優しい作品だと思います。もちろん切り口は残酷で、あまりに重くシビアな内容に圧し潰されそうにもなるのだけど、それは逃げられない現実としてまっすぐ正面から向き合うことを教えてくれる、非常に素晴らしい作品でした。

Writer

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トガワ イッペー

和洋様々なジャンルの映画を鑑賞しています。とくにMCUやDCEUなどアメコミ映画が大好き。ライター名は「ウルトラQ」のキャラクターからとりました。「ウルトラQ」は万城目君だけじゃないんです。