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本当に映画愛はあるか?私が『ラ・ラ・ランド』に「激おこ」した10の理由

ラ・ラ・ランド
La La Land © 2017 Summit Entertainment, LLC. All Rights Reserved.

この記事は、寄稿者の主観に基づくレビューです。当メディアの見解・意見を代弁するものではありません。

『ラ・ラ・ランド』を観て何かに似ているなと思ったら、TV版『うる星やつら』のオープニングだった。「あんまりソワソワしないで~♪」のあれである。まあ、それは個人的に80年代アニメ再放送世代だったので(『アラレちゃん』も『ひみつのアッコちゃん』も再放送で観た)連想しやすかったというだけかもしれない。ていうか、そうなのだろう。ただ問題は、映画愛やら音楽愛やら満載なはずの『ラ・ラ・ランド』の映像が、記号表現中心に構成されたTVアニメと同じような印象をもたらした、という一点である。


そこで、自分にはこんな考えが首をもたげたのだ。

「はは~ん。デイミアン・チャゼル、おまえ、映画詳しくないだろ」

この記事は、寄稿者の主観に基づくレビューです。当メディアの見解・意見を代弁するものではありません。

『ニュー・シネマ・パラダイス』にも通じる搾取の構造

ところで、自分は『ニュー・シネマ・パラダイス』(’88)が大嫌いである。重政隆文著『映画の本の本』内で、『ニュー・シネマ・パラダイス』がいかに表層的な映画愛PRに徹し、映画ファンを搾取しているかは説明されているので、わざわざここで理由の詳細は書かない。要するに、「この映画の言ってる映画愛って的外れなんだよな」ということである。さらに、重政氏は『ニュー・シネマ・パラダイス』で感動するかどうかは映画ファンとしての踏み絵であるとさえ書いている。踏み絵とまでは言わないが、少なくとも『ラ・ラ・ランド』は、『ニュー・シネマ・パラダイス』と同じく、その人が批評的な視点を持って映画を観ているかどうかを「ある程度は」判別するきっかけになるだろう。踏み絵じゃなくても心理テストくらいにはなるんじゃないっすかね。?

別に、映画を観るとき、ストーリーや台詞を真に受けて、登場人物の誠意を信じ、作り手が観客よりも映画や音楽や人生に詳しく人格的にも優れているのだと思い込むことが悪とは言わない。そういう見方のほうが楽な場合もある。たとえば、我が家には定期的に某新興宗教の勧誘が訪問してくるが、信者の方々はみんな楽しそうだ。信じるものは救われる、マジで。ただ自分は、別に会ったこともない作り手のことなんざ、無条件で信用するつもりにはならないというだけだ。?

私が『ラ・ラ・ランド』に「激おこ」した10の理由

『ラ・ラ・ランド』に「激おこ」した箇所なら100は下らない。ただ、さすがにその全てを列挙すると誰も読まないだろうから(ただでさえ俺の文章などSEO的には失格なのだ。)せめて10くらいにまとめてみた。?

  1. 作り手の映画愛が疑わしい。
  2. 台詞、歌の歌詞、シークエンス、すべてが説明的で情感がない。
  3. エマ・ストーンに比べ、ライアン・ゴズリングの歌がイマイチ。
  4. 主役の二人が古い映画やジャズを愛している理由が「古いから」以外に見当たらない。嫌な感じ。
  5. エマ・ストーンにとって、女優として努力する道はオーディションとパーティーと明らかに宣伝不足の一人芝居…。
  6. 「映画とジャズは死に体」という現状認識は正しいとして、仮想敵とされているものがポップスと大作映画。それって、短絡的すぎない?
  7. 作り手も登場人物も古きよきジャズを愛しているはずなのに、劇中楽曲が分かりやすいポップスの体裁、という自己矛盾。
  8. ラブストーリーとして、障害もライバルも登場しないので、起伏がない。結局、二人のIQ低めで感情的な喧嘩でしかドラマを作れない。
  9. 見せ場での視覚効果が、俳優の肉体性を奪う結果にしかなっていない。
  10. 映画ファンの良心を搾取するという極悪非道なコンセプト。

このうち、映画ファンの立場からすればもっとも罪深いと思えるのは1.「作り手の映画愛が疑わしい」と10.「映画ファンの良心を搾取するという極悪非道なコンセプト」である。具体的に検証しよう。

年代がバラバラな引用の共通点は?

『ラ・ラ・ランド』作中でタイトルが挙げられたうえ、内容的にも踏襲していると思える旧作は『赤ちゃん教育』(’38)、『カサブランカ』(’42)、『汚名』(’46)、『理由なき反抗』(’55)、『恋におちたシェイクスピア』(’98)。年代もジャンルもバラバラである。もちろん、映画の引用を行うのにまとまった時代の作品しか選んではいけない、というルールはない。

しかし、『ラ・ラ・ランド』が言及しているのはハリウッドの制作システムの問題である。そのためには、「スタジオシステム」という概念を知る必要があるだろう。1940年代、ハリウッドではスタジオシステムが崩壊し、優秀なスタッフが海外へと流出、逆に給料が安い海外のスタッフがハリウッドにやって来て、作品の質を落としていくという現象が起こった。結果、西部劇やミュージカルなどのハリウッドの伝統的なジャンル映画は継承が困難になり、大量生産に終止符が打たれたのである。

『ラ・ラ・ランド』がミュージカルというジャンルをまとってハリウッド黄金時代へのリスペクトを込めているのは明白だ。「理論的には」、失われたジャンル映画を復活させ、映画の根源的な楽しみを現代に継承させようとしているのだろう。ならば、どうしてハリウッド黄金時代の作品の引用、スタジオ崩壊以降の作品の引用が同居しているのか。

そこに共通点がないわけではない。「カップルが主役の映画」という共通点である(『汚名』は微妙だが、まあ…)。ただし、そのカテゴライズはあまりにも乱暴すぎやしないか?たとえば、『ラ・ラ・ランド』に登場するような名画座が、年代も制作経緯も違う映画を「カップル主演」という括りで上映するだろうか?

それをやってしまうのは、映画館ではなくレンタルビデオショップの発想である。そして、「名作コーナー」の棚にあるDVDを疑いもせず鑑賞し、「やっぱり古い映画はいいなあ」とのたまう従順なショップ会員の感慨である。そこに、「ソフト化されていない傑作映画はいくらでもある」という思考は介在しない。「語り継がれている映画」が「名作」とイコールだとは限らないはずなのに。

そんな程度の映画愛しかないので、ニコラス・レイの傑作が上映されている途中で劇場を抜け出し、ロケ地で乳繰り合うなどという呆れたシーンが登場するのだ。(上映中にフィルムが焦げることなんて珍しいことではないので、中座する理由としては薄弱である。チャゼルはそもそも、映画館で映画を観る習慣があるのか?)全く異なる文脈で制作されたフランス映画もハリウッド映画も、同じ「ミュージカル映画」として雑にまとめられてしまうのだ。たとえば、これがアクション映画なら『燃えよドラゴン』と『コブラ』と『マッドマックス』を「どれも同じアクション映画」で同一視してしまうのは滅茶苦茶だと誰もが思うだろう。『ラ・ラ・ランド』がやっているのはそういうことである。観客も呑気に感動している場合ではない。主役二人の映画愛を疑わなければならず、旧作へのリスペクトの欠如に辟易するべきなのだ。監督の前作『セッション』(’15)も退屈はしなかったが、何かザワザワしたものを感じずにはいられなかった。金がかかっているぶん、『ラ・ラ・ランド』では問題が増長していると見るべきだろう。?

映画愛という名のアトラクション

『ラ・ラ・ランド』はよく言われるように『シェルブールの雨傘』や『雨に唄えば』の影響を受けている。しかし、『シェルブールの雨傘』と『雨に唄えば』の足元にも及ばない。理由は簡単で、『ラ・ラ・ランド』が批評家に媚び、観客をたぶらかし、「それっぽさ」だけに貫かれた似非ジャンル映画だからだ。はっきり言うが、『ラ・ラ・ランド』の映画愛は偽物である。ジャズに関しては枚数を聴いていないので、「売れ筋とはいっても、あの程度の音楽でツアーとか出られるのかね?」くらいの感想しか書けない。しかし、映画については分かる。デイミアン・チャゼルが心の奥では熱い映画愛を抱いていようとも、少なくとも表現のレベルには落としこめていない。

それならば、どうして誰もが『ラ・ラ・ランド』に騙されるのか?似た現象として『ALWAYS 三丁目の夕日』(’05)が挙げられる。公開当時から、多くの映画評論家が『ALWAYS』が描いた昭和を「偽物」として糾弾した。しかし、多くの人が世代を問わず、『ALWAYS』に感動し、映画は大ヒットし、あまつさえ賞まで獲ってしまった。つまり、『ALWAYS』の昭和の再現度など観客にとっては大きな問題ではなく、『ALWAYS』を通して理想の昭和、「昔は良かった」という幻想を積極的にかきたてられることが重要だったのである。乱暴に書けば、観客は「自ら騙されたがっている」のだ。現象としての『ALWAYS』論は切通理作氏の『情緒論 セカイをそのまま見るということ』に素晴らしい考察があるのでおすすめしたい。作品を肯定している立場からの論調ではあるが、違う感想でも心を打つ批評は存在する。『ラ・ラ・ランド』に関してはないけど。

『ラ・ラ・ランド』は、映画ファンが「映画愛」やら「映画やジャズがキラキラしていた頃」やら、実体のない幻想を満喫するためのアトラクションとして機能している。それでもいい、それがいいと言うなら自分は批判しない。ただ、自分はどんなに残酷で、胸が痛くても世界の真実を見続けたいと思う。そして、現代でも鑑賞できる様々な方法を使って、黄金期の映画を劇場で観たいと願う。そのほうが、『ラ・ラ・ランド』やレンタルビデオ店の名作コーナー以上に学べることが大きいからだ。

Writer

石塚 就一
石塚 就一就一 石塚

京都在住、農業兼映画ライター。他、映画芸術誌、SPOTTED701誌などで執筆経験アリ。京都で映画のイベントに関わりつつ、執筆業と京野菜作りに勤しんでいます。

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