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【レビュー】『ムーンライト』は単なる黒人映画じゃない!「3つの海」から読み解く

2017年度のアカデミー賞を3部門で受賞し(作品賞の発表は苦々しいものでしたが、それも含めて)何かと話題の『ムーンライト』。2017年4月22日、「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル」でも満を持して紹介され、宇多丸氏の評価もかなり高く評判の一作です。放送を聴いて映画館まで足を運んだという方もいらっしゃるのではないでしょうか。

…………というのは一部コアな映画ファンの間だけで、一般的に日本国内ではアカデミー賞対抗馬であった『ラ・ラ・ランド』ほどの注目を集めず、全体的に「まずまず」といったところ。映画.comでもレビューの数は『ラ・ラ・ランド』の923件に対し、『ムーンライト』は152件。ちなみに『美女と野獣』は公開3日目にして107件のレビューが寄せられています。(2017年4月24日18時現在)

そうした状況ですが、やはり良いものは良い。それは揺るぎません。『ムーンライト』の素晴らしさをなんとかお伝えすることはできないかと思いました。前半にネタバレなしで基本情報を、後半では作品の内容に触れながらレビューしていきたいと思います。

少年が青年になるまで

まずは重大なネタバレを避けて考察をしていきたいと思います。既に作品をご覧の方もおさらいがてらにサラサラっとどうぞ。

ムーンライト
© 2016 A24 Distribution, LLC

フライヤーからもわかるように、この映画は①とある少年シャロン②思春期を経て③いつしか青年シャロンになるまでの半生を描いた作品ですが、彼の半生は『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』や『フォレスト・ガンプ』のような数奇で起伏の激しい人生ではありません。非常に狭いコミュニティの中で苛烈な出来事がまるで流れ作業のように淡々と起こっていきます。

ある事で悩むシャロンが「今はまだわからなくてもいい。そのうちわかる」と優しく慰められるシーンがあるのですが、映画はシャロンを甘やかすことなく容赦なく時計の針を高速で回していきます。このように起承転結の起伏の高低差が低い分、映画は全力投球でシャロンの心理の機微を描くことに集中しています

彼の人生の中でいくつかターニングポイントがあるのですが(生きてれば誰でもありますよね)、驚くことにそれらはバッサリと省略されています。

1.少年期
 (2.ブランク)
3.思春期
 (4.ブランク)
5.青年期

構成としては上の1, 3, 5にあたる部分が描かれ、2と4の部分は省略されているのですが、この2と4で起こったであろう重大な出来事が3と5で「そういえばそんなことあったよね~」くらいのめちゃくちゃ軽いテンションで観客に提示されます。これが結構ショッキングで、それだけで1本、いや5本くらい映画を作れそうなものなのですがそうした出来事は徹底的に(おそらくあえて)排除されています。

物語の展開の意外さで観客を翻弄するのではなく、シャロンの心境の変化・精神的成長を見せつけることに精力が注がれています。そうした想いから同様に我々にも「シャロンに集中して欲しい」というメッセージを込めて衝撃的なエピソードを省いているのではないかと考えられます。これだけでもあまり他には例のない作品であると言えるのではないでしょうか。

ちなみに、余談ですが起用された3人の俳優たちは撮影の期間中に顔を合わせることを禁じられていたそうです。

シャロンは黒人ではない?

ムーンライト
© 2016 A24 Distribution, LLC

一見すると(日本人の我々からすれば特に)風変わりな環境で主人公のシャロンは生きています。

『ムーンライト』という映画は「黒人」、「ゲイ」、「LGBT」、「貧困」、「ドラッグ」というキーワードと共に語られがちです。たしかにそうしたマイノリティたちをメインキャラクターに登用することでスポットライトを当てた映画です。それは間違いではありません。

しかし、この作品の中でシャロンは鍵括弧つきの「黒人」として現れてはいません。「え?黒人じゃないの?黒人でしょ?」と思われるかもしれませんが、たしかに彼は黒人です。間違いありません。しかし一方で黒人ではありません。噛み砕いて説明しますとシャロンは黒人の多い地域に生まれ、黒人と共に育ち、そしてそのまま大人になります。もはや、恐らく彼が人生の中で「自分が黒人だ」と意識する時間はほんのわずかしかないでしょう。閉鎖的な島国で暮らす我々が普段日本人であることを意識していないのと同様に彼は常々自らの肌の色を意識することはありません。『最高のふたり』のように人種を理由にあらゆる差別を受けるわけでもなければ、公民権運動に奮闘し汗を流すでもなく黒人であることを背負ってジャズに打ち込むわけでもありません。

「ゲイの黒人が主人公である映画は少ない」という点で注目を集めてはいるものの、映画の内容そのものにとってシャロンが黒人であることはあまり重要ではありません(決して無関係というわけではありませんが)。ですので、黒人だから――と異化して距離をとるのではなく等身大のシャロンに向き合って映画を見ていただければと思います。まだご覧になっていない方もそのように「堅い内容だろうから」と敬遠しないで是非見ていただきたいです(残念ながらデートには向かないとは思いますが……)。

同様に他の要素――「ゲイ」「貧困」なども“ゲイだから○○”あるいは“貧困だから○○”ではなく、“ゲイなりに○○”または“貧困なりに○○”という丁寧な人物描写が施された映画となっています。

映像的にもかなり手が込んでいて、作品を象徴する色である“青”がアナログ・デジタル両面の方法で随所に織り込まれており、一貫した世界観が形成されています。一体どれだけの手間がかかっているのでしょうか……。

このように、あらゆる角度から緻密に作り込まれた映画が『ムーンライト』なのです。「社会派作品」というワンフレーズの風呂敷で包むには偉大すぎる作品です。

【注意】

以降の内容には、映画『ムーンライト』のネタバレが含まれています。

 

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すべてを包み込む海

上の項で青色が象徴的に多用された映画であると書きましたが、それに関連して本作は「海」というものが象徴的に何度も映されている映画です。息を飲むような画面いっぱいの美しい海の映像、さりげなく鳴っているまろやかな波の音は鑑賞後にもゆっくりと記憶に染み込んできます。

この「海」が意味する物とは一体何なのでしょうか? ここでは3つの海を比較考察します。

1. フアンに連れられた海

そのコワモテのルックスとは裏腹に親代わりの存在となるフアン。絶えずシャロンに優しい言葉をかけ続けますが、それ以上に機嫌よさそうに上唇を舐める仕草や無言の微笑みが頼もしい。「実は優しい」ということが一目でわかります。これぞまさに演技。マハーシャラ・アリの助演男優賞受賞にも納得です。

そんな彼にシャロンは(おそらく)初めて海を見せられるのですが、ここで彼はフアンから泳ぎ方を教わります。父親代わりの役割を担うフアンですが、「教える」「教育する」という行為でふたりの関係が親子関係に近いことがより一層はっきりとします父親は不在、母親はドラッグ中毒でネグレクト気味。そうしたシャロンにとってフアンは彼の第二の親のような存在となります。

© 2016 A24  Distribution, LLC
© 2016 A24 Distribution, LLC

ここで忘れてはならないのがフアンの水泳をレクチャーする映像はまるでキリスト教の洗礼のようで、どことなくリバース(rebirth)を彷彿とさせるということです。またこの時フアンは「人類の最初は黒人だった」と語ります。この言葉で誕生、生命といった概念と「海」が線で結ばれます(例えば『新世紀エヴァンゲリオン』などでも「生命の源としての海」、「まるで胎内のような海」が描かれていますよね)。

生命を産むのは母体――つまり母親です。つまりフアンは父親のようであり実は母親のような存在も兼ねているのです。フアンの恋人であるテレサとシャロンがそこまで親密ではないところもこれを裏付けます。フアンとテレサが対称的に均質に描かれているのなら彼らを第二の両親として捉えることが出来ますが、フアンとテレサの描かれ方には偏りがあり非常にアシンメトリックです。そうしたことからフアンは父性と、そしてさらに母性をまとったキャラクターであることがわかります。

以上のようにこの場面では母なる海が現れています。

また、幼少期に母親不在の家で湯船にお湯をためて入浴する姿もこれに関連付けすることが出来るのではないでしょうか。「風呂は心の洗濯」と言ったのは(またしても『エヴァンゲリオン』の)葛城ミサトですが、彼はこの時に入浴という行為で心の平穏を取り戻しています。母親が居ない家で浸かる湯船は母体の代替物とも解釈できます。

2. ケビンとの海

幼少期からの親友であるケビンと性的な関係を持つ舞台となったのも海でした。友情関係と恋愛関係がグラデーションになっていくという甘酸っぱく緊迫したシーンです。前半では「シャロンがゲイであることは内容とあまり関係ない」という旨の記述をした手前恐縮ですが、ここではゲイであるという設定がかなり効いています。シャロンとケビンは(性的マジョリティの価値観では)恋愛関係になりえない同性の友達。ケビンと別の女性がセックスしている夢を見るところからも、シャロンがケビンのことを完璧なヘテロだと思っていたことが分かります。そこでまさかの手ほどき。恋愛関係が成立しづらければしづらいほど、その距離が遠ければ遠いほど成就した時に観客に与える打撃力は“てこの原理”のように大きくなります。

露骨にセクシャルなシーンのはずがどことなく耽美的に映るのはやはり穏やかな夜の海というシチュエーションの後押しがあったからでしょう。クラブの非常階段や車の中ではこのような印象を与えることは出来なかったのではないでしょうか。

母性愛を象徴していた海ですが、今度は性愛を象徴するようになります。

3. ケビンと再会する時にも海

青年期、ケビンと再会する日(さりげなくブラシで髪を整えるシャロンはキュートでしたね。このような細かい演技の演出もこの作品が評価されている数ある点の一つだと思います)、ケビンが働くレストランの前のアスファルトは重く濡れており所々に水溜りがあります。撮影の都合上たまたまかもしれませんが、この海から派生した水のモチーフは映画全体のトーンをまとまりのあるものに仕上げていると思います。

ムーンライト
© 2016 A24 Distribution, LLC

さて、海の話に戻ります。ケビンと再会し近況報告が済むとシャロンはケビンの部屋に泊まることになります。注目すべきはケビンの家が海沿いにあるということです。こればかりは偶然でないように思います。

そして海沿いの部屋で二人はまたかつてのように抱き合うことになります。ケビンがシャロンを殴ったこと、シャロンが堅気の仕事をしていないこと、ケビンの離婚歴、子どもがいること、シャロンが永らく姿を消していたことなど――これまでの全てとお互いの現在のありのままを許し、受け入れ、抱き合うのです。前半・中盤では見ることのできなかった、また別の形の包括的な愛が描かれています。

幼少期に親からの愛を受け取り、思春期に情熱的な性愛・恋愛を経験し、大人になるにつれて更に深い包容力のある愛情を抱く――これは同性愛者であるシャロンに限った話でしょうか? 黒人たちだけの物語でしょうか? ニューヨークや日本では起こりえない出来事でしょうか? 少なくとも筆者はそうは思いません。これは全人類に共通する普遍的な愛の形の移り変わりではないでしょうか。作品の表面に見えるのは個別的な黒人、貧困といった理由による苛烈な環境ですが、その内側には一般化された愛が語られています。この段階的な“愛の形の物語”は、章立てで、それも別々の俳優の演技で構成されていることでギアチェンジするかのように明確に違いが際立ちます。

ぼやけたアイデンティティ

愛について書き連ね、この映画は普遍的な愛を描いているんだと言い切りましたが、一方でシャロンが、自らがマイノリティでいることを悩んでいたことは事実です。振り返ってしまえば些細な問題なのかもしれませんが、小さな棘ほど抜くのに時間がかかり鋭くて痛みの伴うものです。

マイノリティであることに悩み、自らのアイデンティティを確立することができず、いつも自信の持てなかったシャロン少年が辿り着いたのはフアンそっくりの「筋肉隆々のヤクのディーラー」でした。鋼のような肉体、高級車にゴールドアクセサリー。非常に男性的です。ライムスターの宇多丸氏はこれらを「鎧」と表現していましたが、氏の仰る通りこのような外面的な強さは内面的な弱さの裏返しでもあります。『タクシードライバー』などを思い出していただけると理解しやすいかと思います。トラヴィスも武装してモヒカンになり外面的には強くなりましたが、やはり彼は弱い心の持ち主でした。

そんなシャロンの姿を見て大人になったケビンは「お前は誰なんだよ」(変わったなあ、というようなニュアンスで)と問います。

何てことないさりげない一言ですが、ポイントは“Who are you?”ではなく“Who is you?”と言っていること。名前や身分を聞いているのではなく、シャロンの本質への疑問を表現しているようにも聞こえます。単に砕けた表現やフロリダ特有の訛りかとも思いましたが、サウンドトラックの19曲目が“Who is You?”であることからもやはり何らかの意図がありそうです。自分は何を信じればよいのか? どのように振る舞えばよいのか? 本当に同性を愛してよいのだろうか? ヤクの売人でいいのだろうか? そんなシャロンの苦悩が聞こえてきそうです。

そしてラストシーン、最後の最後に映るのはシャロン少年です。細くて華奢な身体の少年は波打つ海を見つめながらこちらに背を向けている――かと思った刹那、彼は振り向いてスクリーン越しに観客を見つめます。

外面的に武装をしたシャロン青年ではなく、この弱々しい見た目のシャロン少年こそが本当のシャロンの姿ではないでしょうか? まっさらなありのままの状態で愛の象徴たる海と対峙しています。そのようなシャロンが振り返り、我々が見つめられることで彼に「お前はどうだ?本当の自分で生きていけるか?」と無言で問いかけられているような気になります(材料不足のため解釈ではなく筆者の感想になってしまいますが)。

おわりに

一般的な評価としては本作は上でも述べた通り「ゲイ、黒人、貧困などのマイノリティへの救済的眼差しを与えた映画」だというパッケージが数多くなされています。『ムーンライト』を足掛かりにアカデミー賞のホワイトウォッシュ問題などを論じることもそう難しくはないでしょう。しかし、決してそれだけで終わる辛気臭い映画ではないということをお伝えすることができていれば幸いです。

『マッドマックス 怒りのデス・ロード』や『シン・ゴジラ』のようにエンドロールが終わった瞬間から息継ぎなしに「もう一度見たい」と血眼で叫びたくなるようなハイな作品ではありません。ずぶ濡れの重いスニーカーを引きずるような気持ちで劇場を後にすることになります。けれども少なくとも死ぬまでにはもう一度、いや三度くらいは見たい素晴らしい映画だったと思います。

ちなみに、本作は映像的にも素晴らしく従来にはあまりない加工が施されているとのことです。興味のある方はそちらの方も調べてみてはいかがでしょうか。

[追記(2017年4月28日)]

主人公 Chironのカナ表記は「シャイロン」「シャイローン」がより正確ではないか、というところは多くの方もご指摘の通りですが本記事では日本国内のオフィシャルの表記に一致させて「シャロン」とさせていただいております。ご了承ください。

© 2016 A24 Distribution, LLC

Writer

けわい

不器用なので若さが武器になりません。西宮市在住。