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【解説レビュー】『オクジャ / Okja』を資本主義社会の「記号」から読む

(c) Netflix. All Rights Reserved.

2017年6月28日よりNetflixにてポン・ジュノ監督最新作『オクジャ / Okja』の独占配信がスタートしました。

本作は第70回カンヌ国際映画祭でもメインコンペティション部門で上映され、大きな話題を呼びました。その完成度の高さもさることながら、劇場公開を経ることのないオンライン配信限定作品を授賞対象にすべきか大論争が起こったことは、みなさんの記憶にも新しいことでしょう。これまでの映画の常識を様々な意味で揺るがす必見の作品であることには間違いありません。

『オクジャ / Okja』は、大自然に囲まれて暮らしてきた少女ミジャが、大企業に奪われた“友だち”のオクジャを取り返すため、欲望渦巻くソウルやニューヨークで大冒険を展開するアクションアドベンチャーです。手に汗握るカーチェイスや少女と動物の心温まる交友を描くエンタテイメント作品としての面と、利潤最優先の大企業や過激な動物愛護団体の活動を鋭く批判する社会派作品の面がほどよくブレンドされており、大変見ごたえがあります。

今回の記事では物語の核心まで踏み込み、様々な要素が盛り込まれた本作をじっくり読解します。具体的には、資本主義社会における大量生産・大量消費の現状と、ヒトやモノに価値を与え、つなぎ合わせる「記号」の2点から『オクジャ / Okja』を解釈していきます。

【注意】

この記事には、映画『オクジャ / Okja』のネタバレが含まれています。

自然 vs 資本主義

『オクジャ / Okja』の最も大きな骨組みは「自然 vs 資本主義」の対立であると考えられます。作中の設定でも特に「ミジャの住む山奥とソウル/ニューヨーク」と「ALFとミランド社」の関係性はこの二項対立がはっきりしていました。内容を細かく見ていきましょう。

まず「ミジャの住む山奥とソウル/ニューヨーク」について。主人公のミジャは山奥で祖父の保護の下、オクジャと共にのどかな暮らしを送っています。遊び場はすべて山の中、たくさん捕まえた魚は稚魚だけ川に戻し“自然な形”で命を食すという彼女の生活は、“自然”と一体化しています。アップル製品を見ただけで大騒ぎという、ちょっと意地悪なシーンもありましたね。
そんな彼女がオクジャを助けるために飛び出すのは、韓国の首都ソウルと世界経済の中心地ニューヨーク。四方をコンクリートで塗り固め、自然を徹底して排除した大都会が象徴するのは“資本主義”です。ミジャがオクジャを追いかけて坂を下り、都会で大騒動を起こす(=下界におりていく)シークエンスはエキサイティングな前半の目玉であると同時に、非常に示唆的でした。“資本主義”の世界に突然“自然”から異質な存在が侵入するこの場面は、あとで述べる資本主義社会への批判を考える上で見落とせません。

次に「ALFとミランド社」について。ALFは実在するエコテロリストたちです。動物愛護を掲げて破壊的な政治活動を行っています。人工物を毛嫌いして何も食べられずに死にそうになっているメンバーの描写はあまりに極端で笑ってしましたが、ALFはあくまで“自然”な状態を理想としているようです。
そんな彼らと動物の扱い方で対立するのが、国際企業のミランド社です。ミランド社は“世界の食糧問題を救う大発見”と称して遺伝子組み換えで生み出したスーパーピッグを売り出します。オクジャはそのキャンペーンのために送り出された、いわばマスコットです。クライマックスで明かされるように、スーパーピッグはモノを生産するかのように工場で育てられ、流れ作業で殺処分されてしまいます。安価でおいしい食品を家庭に届け、利潤を得るために命をモノのように扱うミランド社はまさに“資本主義”の権化です。

こうした「自然 vs 資本主義」の描写から明らかにされるのは、資本主義社会における大量生産・大量消費の現状と、私たちの欺瞞です。私たちが普段口にしているような食品は、元はと言えば命ある生き物でした。それが機械的に殺され、工場で加工され、複雑な流通ルートを経て手元に届いているのです。ミジャが屠殺場で見た大量のスーパーピッグたちの死体は、賢くて優しいオクジャと同じ生き物です。ミジャが山奥で“自然な形”で命を食べているのに比べても、ずいぶん残酷に思えます。この点ではALFの主張は大いに賛同できるものであり、彼らが絶対的に正しい存在のようにもみえます。
しかし、私たちはもうミジャのような原始的な生活に戻ることはできません(少なくとも、Netflixで映画を楽しめるような環境にあなたがいるのであれば)。資本主義の下で稼働する大量生産・大量消費のシステムから逃げることはできないのです。いくらきれいごとを並べたところで私たちはシステムに組み込まれてしまっているし、あえて抗おうとするとトマトひとつ口にできず死にかけます。なんとも居心地の悪い現実が突きつけられてしまうのです。

ミジャのピュアな気持ちと大人たちのエゴ

「自然vs資本主義」の対比に重ねて、もうひとつ重要な対比になっているのが「ミジャ vs 大人たち」の構図です。この対比の軸になるのは、映画を通して彼らが必死になって到達しようとしている目標、すなわち行動原理です。

映画全編を通してミジャの行動原理は一貫しています。彼女が求めているのは「オクジャと一緒に帰ること」だけです。彼女はただひたすらオクジャと暮らす平和な日常を取り戻したいのです。祖父にお金で丸め込まれそうになって激怒したり、ニューヨークのパレードでもふて腐れた態度をとったり、ミジャがお金や名誉に全く関心がないことは明らかです。この純粋な愛を原動力とした彼女のまっすぐさに心打たれた人も多いことでしょう。

対してミランド姉妹やALFのメンバーの行動原理はなんでしょう? ひとことで言えば、それは「エゴ」です。ミランド姉妹の妹ルーシーは自分を虐げてきた父や姉に対するコンプレックスや怒りに突き動かされ、自分でなにか大きなことを成し遂げたいという野望を持っています。だからこそ見かけ上は美しいものの、実情は闇だらけのスーパーピッグ計画を推進するわけです。彼女は企業としての利潤追求もさることながら、自分の足りない部分を補うためにこの計画を実行しているように思われます。「世界の食糧危機を救う」というキャッチコピーや過剰なタレント的自己演出はこの意識の表れでしょう。これはまぎれもない「エゴ」です。ALFも同様です。動物愛護という一見素晴らしいお題目を唱えながら、やっていることはテロリストです。非暴力による革命を訴えながら、掟を破った内部の人間には容赦なく暴力で制裁を加えるその実情は、この組織の矛盾を表しています。生き物を守るためだと言って幼い女の子から“友だち”を奪い、その結果をわかっていながら拷問の現場に送り込んでセンセーショナルな攻撃材料を手に入れる彼らの手法は卑怯極まりない。ミランド社もALFも具体的な目標は違えど、けっきょく己のエゴで動く醜い生き物なのです。なにか高みを目指すこともなく、ひたすら現状の回復を求めるミジャと彼らが対比されることで、大人たちの愚かさを痛烈に皮肉っています。

また、ミジャ=自然、大人たち=資本主義と置き換えることも可能でしょう。この場合、大人たちとはミランド社のことを指し、ALFはミジャと大人たちの橋渡し的存在として捉えることができます。ミジャ=子ども=純粋=自然、大人たち=エゴ=利益追求=資本主義という、一般的な図式が成り立ちます。

資本主義社会の「記号」

私たちの生きる資本主義社会では「記号」が消費されています。「記号」は単なるモノに価値を与え、利潤を生みます。例えば女子高生が原宿で流行りのパフェを食べ、インスタグラムに載せたとします。それは「可愛い」「女子高生らしさ」の象徴であるパフェという「記号」を消費していることになるわけです。
「記号」はイメージや表象だけでなく、言語も指します。そして言語には通貨も含まれます。例えば英語という言語、ドルという通貨を考えてみましょう。これらが「記号」として流通することによって、人びとは円滑にコミュニケーションを交わし、世界は回っています。「記号」は社会に欠かせないコミュニケーションツールなのです。

この「記号」が『オクジャ / Okja』を考察する上で最も重要なカギになると私は考えています。

その根拠はクライマックスのミジャの行動です。彼女はソウルやニューヨークでオクジャを助けるべく、野生的な力を発揮して激しい追走劇を展開しました。しかし結局のところミランド社やALFに振り回され、まともに交渉することすらできません。彼女は英語がわからなかったがゆえに、オクジャをALFに奪われてしまいました。田舎から出てきた垢抜けない少女を対等に扱ってくれる大人など一人もいません。

そこで彼女が獲得したのが言語という「記号」です。すなわち、飛行機の中で読んでいた「バカでもわかる英会話」と、祖父から奪い返した金の豚です。もちろん、英会話は英語、金の豚は通貨=お金を指します。ミジャはクライマックスの屠殺場でナンシー・ミランドと対峙し、オクジャを取り返すための交渉に打って出ます。その時、彼女が用いたツールが英語とお金です。韓国語ではなく、英語で直接自分の思いを伝え、金の豚との交換を持ちかけます。

利潤を追求することが最大の善である資本主義社会において、世界中の人びとを繋げるコミュニケーションツールが英語という言語とお金なのです。田舎少女としてその有り余るパワーで大人たちに反抗したミジャも「オクジャと一緒に帰る」という目標を人間の社会で達成するには「記号」のルールに従わなければなりません。映画的なカタルシスをあえて外したこのクライマックスは、ミジャがただガムシャラに行動するだけではなく、資本主義のルールに従うことで目標を達成するという成長の描写になっています。オクジャをお金で交換できる「モノ」として扱うことで「愛」を取り戻すということは、ミジャが自分の中の何かを捨て、社会に屈服したと捉えることもできます。しかし、エゴだけを貫いて破滅した(そして資本主義の歯車でしかないことが露呈した)ルーシーや、いつまでも世界を変えられないALFを見ると、ひとつでも自分の目標を達成できたミジャは彼らと比べても一枚上手です。資本主義の世界では「記号」に従わない限りなにも得られないし、まして世界を変えることなんてできるはずがない。身もふたもない話ですが、『オクジャ / okja』はそんな資本主義社会の現実と絶望から目を背けず、しっかりその恐ろしさを描ききっています。

イメージや表象としての「記号」についても考えてみましょう。作中、この意味での「記号」が重要なカギとなったのはオクジャとルーシーです。

オクジャはスーパーピッグ計画のマスコットです。商品を売り出すため、自然豊かな環境ですくすく育った“健康的”かつ“環境に優しい”食品としての「記号」をオクジャは背負わされています。消費者はオクジャの暮らす大自然を頭に浮かべながらスーパーマーケットの食肉コーナーでミランド社のソーセージを手に取り、食卓で消費することでしょう。しかしそれはあくまで「記号」でしかなく、キャンペーンが終わったらあっさり屠殺場に送り込まれてしまいます。マスコットとしての価値はあれど、用無しになればオクジャもまた大量生産される家畜の一匹です。そこに本当の意味などないのです。また、ミジャも「オクジャに愛情を注いだ純情少女」としてチマチョゴリを着せられ、プロモーションのための「記号」として資本主義社会に投げ込まれていることも忘れてはなりません。

ミランド社のルーシーもまた「記号」として捉えることができます。彼女は徹底したセルフブランディングを行い、国際企業ミランド社を率いるカリスマとして華々しい衣装に身を包んで舞台に立っていますね。実際はかんしゃく持ちでエゴも強く、強力なリーダーシップを発揮しているとは言えません。彼女もまた自ら「記号」を背負い、他との差別化を図ることで自らに価値を与えています。しかし、彼女は最後に失敗しますよね。ルーシーは自分を商品化することで成功を目論みましたが、結局のところお金が資本主義社会で最大の善であるということをわかっていなかったのです。ナンシーはエゴに振り回されず、お金に従順であったおかげで、表舞台にカムバックすることができました。


『オクジャ / Okja』はモヤモヤの残る映画です
主人公ミジャは資本主義社会の「記号」とそのルールに従うことでオクジャを取り返します。あれだけの大冒険を経ても、世界はなにも変わりません。スーパーピッグたちは今日も明日と殺され続けます。本当に身もふたもない話です。自分たちの住む世界の矛盾と、自らが作り出したシステムに支配され、なにも変えることができない人間たちの無力さを突きつけられます。

しかし、絶望だけに終わらないのが『オクジャ / Okja』の良いところです。ミジャはオクジャと共に屠殺場を去るとき、一匹の赤ちゃんスーパーピッグを保護します。世界を変えられなくても、ひとつの命を救うことはできるという、ささやかながらの反抗です。また、エンドクレジット後のオマケ映像では、事件後もALFが活動を続けている様が描かれています。ちょっとズレていて可笑しい集団だけど、何度失敗しても立ち上がり戦い続ける彼らの姿は、生き様として大変かっこいい。そしてALFはミランド社のトラックドライバーだった男を新たなメンバーに加えます。どうやらALFの信条に共鳴したようです。大きな変化をもたらすことはできなかったとしても、世界はちょっとずつ変えることができるかもしれない。少しばかりの希望を残してこの作品は幕を閉じます。

「劇場のスクリーンでも見てみたい!」と思わせる大傑作でした。Netflixが見せてくれる新しい映画の世界がこれからも楽しみでなりません。

 

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トガワ イッペー

和洋様々なジャンルの映画を鑑賞しています。とくにMCUやDCEUなどアメコミ映画が大好き。ライター名は「ウルトラQ」のキャラクターからとりました。「ウルトラQ」は万城目君だけじゃないんです。

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