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「受け」と「仕掛け」の芝居の使い分け ─ 『パターソン』でアダム・ドライバーが見せた「演技派俳優としての強み」とは?

『パターソン』アダム・ドライバー

ニュージャージー州パターソン。住む待と同じくパターソンという名のバス運転手は、毎日午前6時過ぎに起き、妻にキスし、シリアルで簡単な朝食を済ませる。パターソンの趣味は、バスの運転中に乗客の会話を聞くこと、愛犬を散歩に連れて行くこと、毎晩なじみのバーに寄ること。そして、何よりも詩を書くことである。地元の詩人、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズに憧れるパターソンは、日常の些細な発見を輝く言葉に変える才能を秘めていた。パターソンとパターソン市、平凡ながらも美しい1週間が詩とともにつむがれていく。?

名匠ジム・ジャームッシュ監督最新作『パターソン』(2016)は、ジャームッシュが何度となく題材にしてきた「日常の言葉」の集大成ともいえる作品だ。出世作『ストレンジャー・ザン・パラダイス』(1984)での気だるい若者たちの会話、『ナイト・オン・ザ・プラネット』(1991)でのタクシー運転手と乗客の会話、そして『コーヒー&シガレッツ』(2003)でのスターたちが紡ぐ会話など、ジャームッシュ作品ではオフビートなやりとりが特徴的である。会話そのものには深い意味こそない。しかし、会話を生み出す場所の空気、登場人物の関係性こそがありありと伝わってきて、飽きさせない。『パターソン』は「詩」というモチーフを持ち出して、日常をさらに新しい視点から見つめ直していく。

注意

この記事には、映画『パターソン』の内容に触れています。

スターらしさを嫌うジャームッシュ作品に主演したドライバー?

ジャームッシュ作品において、俳優は「映画の一部」である。泣き叫んだり、大笑いしたりして感情表現する俳優をジャームッシュは好まない。あくまでも作品のピースとして静かにたたずむ芝居を演出していく。イギー・ポップやトム・ウェイツ、ジョン・ルーリーなど専業俳優でないキャストを起用したがるのも、スター俳優が抱きがちなナルシズムを嫌っているからだろう。

その点で、パターソンを演じるアダム・ドライバーは完璧に「映画の一部」の役割をこなす。バスの運転手席で、家のソファで、バーのカウンターで…ほとんどのシーンで動きを制限されているにもかかわらず、妙なユーモアと親近感をキャラクターに与えている。ただし、ドライバーの被写体としての魅力は、イギー・ポップのようにパブリック・イメージからかもしだされているのではなく、「演技力」に裏付けされていると忘れないでおこう。

『パターソン』のバーでのワンシーン、失恋した男がオモチャの銃で自殺する素振りを見せたとき、咄嗟に飛びかかり、銃を奪った後、自分の行動が信じられなくて呆然と立ち尽くす一連の動き。スポーツとも武道とも違う、「俳優的」としか言いようがない所作の滑らかさに面食らう。ドライバーに軍隊経験があるという事実がどれだけ関係あるのかは分からない。ただし、「静から動」への極端なコントラストは、ドライバーの役の振り幅を象徴的に表している。?

スコセッシやコーエン兄弟作品にも出演!巨匠も認める実力

ドライバーといえば、現在「新『スター・ウォーズ』のカイロ・レン役」として認知されている。一方で、ジャームッシュ、ノア・バームバック、マーティン・スコセッシ、コーエン兄弟という現代アメリカ映画で特に個性的な監督たちの近作にも立て続けに出演しているのは注目に値する。そして、日常を愛する物静かな詩人から、他人を躊躇なく蹴落とす野心的なヒップスターまで、一つとして同じような役を演じていない。ヴェネツィア国際映画祭で男優賞を受賞した『ハングリー・ハーツ』にいたっては、外国語圏の監督とともに仕事をして成果を残した。もともとは演劇やテレビドラマでも高い評価を受けており、ドライバーのキャリアはハリウッド・スターの中でも多岐にわたっている部類に入る。?

?アダム・ドライバーは『スター・ウォーズ』で大役を務めながらも、目の肥えた映画ファンを唸らせる話題作にも出演し続けるという、絶妙なバランスを保っている。世界的ブレイクを果たしたにもかかわらず、自分を見失った作品選びに陥るような真似はしない。理由は簡単で、ドライバーがすでに俳優として成熟し、キャリアを選択できるだけの実力を身につけているからだろう。

?俳優アダム・ドライバーはロバート・デ・ニーロのように外見を役に合わせて変えるタイプでも、ジャック・ニコルソンのように強烈な個性をどの出演作でも一貫して振りまくタイプでもない。しかし、彼の強みは『パターソン』を見ると一目瞭然である。ドライバーは超絶的に「受け」の芝居が上手いのだ。

『パターソン』アダム・ドライバー

ドライバーが使い分ける「受け」と「仕掛け」の芝居

?パターソンを演じるドライバーは、愛する妻、バーのオーナー、そして職場の同僚と会話するとき、全て別々の表情と声色を使い分けている。パターソンは直感的に動く妻には気圧されながらも、常に思いやりを持った口調で接する。バーではリラックスした表情を浮かべているし、職場では気持ちよさがありつつも深入りはしない態度を見せる。すごいのは、大きな動きをまじえずに最低限の所作だけで演技にバリエーションをもたせている点だ。こんな器用な使い分けができるのは、ドライバーが一方的な演技プランを遂行するのではなく、共演者の演技を「受け」ているからこそである。誰でも話し相手の性格や関係性が変われば、対応も変わるのは当然だが、演技でそれを表現するのは難しい。人間は何かを演じるとき、どうしても頭の中でシミュレーションしてから、こり固まったプランを表現してしまう。脚本やリハーサルで知っている、共演者の言動を初めて見たように「受け」て返していくのは素人にできる技術ではない。だからこそ、演技を専門的に学ぶ場では、「受け」の芝居を徹底的に叩き込まれる。ただし、「受け」の芝居を覚える前に俳優として名を挙げてしまうと、共演者を無視した自分勝手な演技しかできなくなってしまうケースが多い。下積み時代を丹念に重ねたドライバーは真逆で、相手の演技を引き出し、自分も輝く理想的な芝居の応酬ができる俳優なのだ。

??「受け」が正確にできる俳優は、「仕掛け」に回ってもいい仕事をする。『スター・ウォーズ』のカイロ・レンは「受け」以上に、「仕掛け」の演技を要求される役柄だった。悪役が映画に波風を立てなければ、主人公たちはリアクション(受け)を取りようがないからである。あるいは、テレビドラマ『GIRLS/ガールズ』や『ヤング・アダルト・ニューヨーク』のエキセントリックな役柄も、オーバーアクトになるギリギリのラインでリアルに演じていたのが印象深い。往々にして、ルックスだけがいい二流の俳優は、自分だけが目立ちたくて共演者が返せないような演技プランを持ち込みたがるものだ。(そもそも、オーディションによるキャスト選考が根強く残っているアメリカでは、そんな俳優は大役をつかみにくいが)ドライバーの臨機応変な演技力が世界有数のクリエイターたちから評価されるのも自然な流れだったろう。

?『パターソン』で最高のシーンは、パターソンが少女と詩について語らうところである。少女の言葉の一つ一つに、パターソンが覚える静かな感動を、アダム・ドライバーはミニマルな演技で表現している。ドライバーはいまや押しも押されぬ「ハリウッド・スター」だが、彼の成功を支える「演技力」を『パターソン』でじっくりと再確認してもらいたい。

Writer

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石塚 就一就一 石塚

京都在住、農業兼映画ライター。他、映画芸術誌、SPOTTED701誌などで執筆経験アリ。京都で映画のイベントに関わりつつ、執筆業と京野菜作りに勤しんでいます。