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「未知」が与える力 映画『ザ・ウォーク』で語られなかったフィリップ・プティ狂気のおとぎ話

ワールド・トレード・センターの両屋上にワイヤーを張り、命綱無しでその上を渡るという、”史上最も美しい犯罪芸術”と呼ばれたこの挑戦に挑んだフィリップ・プティと、彼の狂気を支えた恋人と仲間たちの日々を綴った映画『ザ・ウォーク』。

映画『ザ・ウォーク』オフィシャルサイト

実在の大道芸人フィリップ・プティを演じるのは、『インセプション』『ダーク・ナイト』シリーズなどで知られるジョセフ・ゴードン=レヴィット。監督は『バック・トゥ・ザ・フューチャー』や『フォレスト・ガンプ』など数々の名作を作り上げたロバート・ゼメキス。

天国に一番近い曲芸。フィリップ・プティをその狂気に誘うものは何だったのか。

夢の舞台は地上に無い

「昔々、あるところに…おとぎ話を語るときはこう始めます。
僕の物語も、おとぎ話なのです。」

フランス訛りの軽快な語り口でフィリップ・プティは語る。
1974年。当時世界最高の高さを誇ったニューヨークのワールド・トレード・センターの間を一本のワイヤーロープで繋ぎ、命綱無しの空中闊歩に挑む…フィリップの奇妙なおとぎ話は、死と隣合わせの”未知”の空間への一歩を踏み出す事だった。

「たいてい、夢というのは実体があって、そこに立ちふさがるもの。でも、僕の夢の相手は、まだこの世に姿が無かったんです。」

6歳の頃より手品に夢中になり、14歳になるとジャグリングをマスター、16歳で綱渡り芸人としての才能を開花させたフィリップ。まだ誰も見たことがない未知の空間を生みだすため、彼がストリートで大道芸を披露する際はチョークで路上に円を描き、その内側に”聖域”を創りだした。

フィリップの創る聖域は、時として本当の聖域に重ね合わされる事もあった。それは、ほとんど芸術だった。

「フィリップがワイヤーの上に姿を表した時…感動的でした。」
──後にフィリップが史上最も美しい犯罪芸術をワールド・トレード・センター間の空中で成し遂げるまで彼を支え続けた恋人アニーは、愛おしげに回顧する。フィリップがノートルダム大聖堂の頂上に張ったワイヤーの上を、やはり命綱無しで歩いた日の記憶だ。

「私は興奮して、聖堂の中に飛び込みました。身廊では大規模な儀式が執り行われていたんです。全身白い衣装を纏った僧侶がたくさんいて、腕を組んで、頭を床につけて寝そべり伏せていました。」

神に護られた聖域の内側、聖職者たちが地に寝そべるその頭上で、フィリップも同じく寝そべっていた。…とは言っても、フィリップは大空を仰いでいた。それもワイヤーの上、身体ひとつでだ。

「私は驚愕して、何も言えませんでした。オルガン奏者に尋ねられました。”ここで何を?”
私はこう答えました、”塔の上に、綱渡り師がいるのよ!”」

アニーは、オルガン奏者が息を呑む様子を想い出す。「彼は驚いた様子で私を見て、”おぉ、本当かね!綱渡り師!それは凄い!”って。」

宗教儀式のさなか、ノートルダム大聖堂の頂上で綱渡りを成し遂げる…。不謹慎にも取れるこの挑戦は、もちろん警察には連行されたものの、人々に驚きと温もりを持って受け入れられた。それは、フィリップが大聖堂の塔の頂上に、彼にしか描く事のできない、全く別の聖域を創りだしたからだ。

未知と狂気への招待状

高さ411m、地上110階…、言うまでもなく(当時)世界最高のビルがニューヨークに建設される…。
17歳のとき、歯医者の待合室でふと手にとった新聞でワールド・トレード・センターの記事を見つけてしまった時、フィリップの身体は硬直した。どうしてもこの記事が欲しかったフィリップは、クシャミをするフリをして新聞をちぎり取り、ジャケットのポケットにしまい込み、虫歯治療も忘れ歯医者を飛び出した。
「その後一週間、歯痛は続きました。でも、夢を得た事に比べれば、歯の痛みなんてどうってことないでしょう?」

海の向こうアメリカ、ニューヨーク。未だ地上に姿無き、世界最長の二本の巨塔。
これ以上無いほどに、未知に溢れた夢だった。フランスのいち大道芸人を狂気の世界に誘うには充分すぎるほどの未知。事実、この未知に取り憑かれたフィリップは、実現までに6年もの準備を費やす事になる。

フィリップと、その狂気に満ちた夢を支援する仲間たちは何度もニューヨークに渡り、巨塔の建設現場に侵入した。
「地下鉄の駅から地上に出て、タワーを見上げた瞬間、自分の夢が一瞬で崩れ去るのがわかりました。無理だ。無理だ。無理だ。
明らかに無理だと思いました。あの間を歩くのはもちろんですが、さらに大量の道具を見つからないように運んで、数時間のうちにワイヤーを張るなんて、明らかに人間の成せる技じゃない。
…でも、私の中の何かが、私を前へ押し出したのです。」

アニーは、この計画に取り憑かれていた頃のフィリップを、「あのタワーへの挑戦無しでは、もう生きていけなくなっていたんです。」と語る。
「あのタワーは、まるで彼のものであり、彼のために建てられているようにさえ感じました。」

時には作業員に変装し、また時にはタワー内部の人物の協力を得ながら建設現場をくまなく観察し、仲間たちと打ち立てた綿密な計画。タワーの構造、そこで働く人々と彼らの勤務シフト、屋上までの到達方法。全ては彼らのノートに事細かに記録されていった。

ひとつずつ、ひとつずつ、クリアになっていく計画は、いよいよ現実のものとなっていく…。たったひとつ、高さ411mの空中に張られた一本のワイヤーの上にひそむ、圧倒的な未知だけを残して。

天国へのエレベーター

「電車に乗って、ニューヨークに到着しました。エンパイア・ステート・ビルを通りかかった時、そのあまりの高さに恐怖しました。」
フィリップと共にフランスからやってきた”共犯者”フランソワは、エンパイア・ステート・ビルを見上げ、怯えながら脚を震えさせた理由をこう説明する。「ワールド・トレード・センターは、これよりもずっと高いという事実に気付いてしまったからです。」

誰でも、フィリップの瞳の向こう側が見えた時、「リスクとは、一体なんだろう?」と考えさせられる瞬間に出会うはずだ。彼のチャレンジにおけるリスクは、これ以上ないほどに分かりやすい”死”。
その死の淵を二本の脚で渡ろうとするフィリップは、「もし、この挑戦で死んだとしたら」という、至極シンプルな疑問をこう考えていた。

「…なんて美しい死なんだろう。情熱の中で死を遂げられるなんて。」

やがて、彼にとっての死は、恐怖の対象ではなくなっていく。計画実行の日、ワールド・トレード・センターの屋上に向かうエレベーターを、「天国へ向かう旅」と言い表している。「暗闇が、灰色になり、そこで私は四角い形をした灰色を見ました。光の四角形、そこに空があって、そして私たちは…、屋上の数階下にたどり着いたのです。」

天国へのエレベーターの中で、フィリップは死の存在を認識していたはずだ。「綱渡りの真実。それは、死によって形作られているという事です。」

これまでフィリップは、ノートルダム大聖堂のみならず、シドニーのハーバーブリッジをはじめ、世界中のあらゆる高所や歴史的建造物での危険な綱渡りを成功させてきた。一本のワイヤーの上、天国からの風がフィリップの頬を叩く度、”死”を感じる瞬間に出会った。ワールド・トレード・センターへの挑戦は、そんなフィリップに人生最大の覚悟を要した。

アニーは、フィリップに向けられる”死”への誘惑に対し、彼がそれに立ち向かう勇気を与えるのが役目だった。アニーの青春、それはワイヤーの上を歩く狂人を、ただ地上から見守り続ける事だった。

「二人に別れの時が来ました。彼の瞳には、本物の狂気が宿っていました。”何があろうとも、僕はやる。今がその時なんだ。”
そうして彼は、これが最後の別れのように、私を抱きしめたのです。」

狂人が詩人になる瞬間

想定外だった巡回警備員の登場や、ワイヤーを張る途中で落としてしまうなどのトラブルに見舞われながらも、フィリップ達はなんとか地上から最も離れた空の間に”道”をつなぐ事に成功した。
あとは、この上のただ歩くだけでいい…。

「死が、すぐそこにありました。」

“死”の恐怖と”未知”が支配する雲の彼方で、フィリップは綱渡り師になった。いつものように、ゆっくりとワイヤーに足をかける。
ただ、この時ばかりは、未知への恐怖が彼を襲った。
そしてその恐怖は、この高さ411メートルの巨塔の間をひとりで渡りきろうとする狂人を、空中の詩人へと変貌させるに至ったのだった。

「突如として 空気の密度が変わる。
マンハッタンの無限の広がりが止まる。
街のざわめきは スコールとなり
その激しさも 私はもう感じない。

棒を持ち上げ へりに近づく。
足を踏み出し 左足をケーブルに。
ビルの側面にかけた右足に
全身の体重がかかる。
左足にすこし 体重を移そうか
右足の負荷が減れば すんなりワイヤーに乗せられる。

こちら側には 私が積み上げてきた人生の山。
向こう側には 雲に満ちた宇宙。
“無”と思える未知の世界。

足元には ノースタワーへ続く道。
55メートルのワイヤーロープ。
一直線に伸び たわみ 揺れ 震え 回る。
氷のようであり
3トンの張力で 破裂しそうに
私を飲み込みそうに。

内なるうめきが 私を責め立てる。
“逃げ出したい”という心からの声。
でも もう手遅れなんだ。
ワイヤーが待っている。

右足は しっかりとケーブルにかかった。」

狂気を支える人々

ひとつずつ、詩人が言葉を紡ぐように、一歩ずつ、フィリップは空の上で静かに歩み始めた。
「さぁ、開演だ。」フィリップは、もはや恐怖を感じなかった。
ここが彼の聖域だからだ。

フィリップの計画を手伝い、この挑戦を間近で見守ったルイスは、「彼の表情が変わった」瞬間を見逃さなかった。
「私がそこで彼に見たのは、”安堵”でした。
もう安全だ、よかった、って。
それから…わぁ、あれは…。」
ルイスの脳裏に、フィリップの聖域が蘇る。青春が愛おしいのか、それとも彼への畏敬の念からか、ルイスは言葉を詰まらせ、涙した。

「ケーブルの上のフィリップは」──ドナルドは語る。彼もまた、フィリップの狂気に魅せられた男の一人だ。「あれほどまでの集中力を見たことがありません。彼の顔は、集中力が作り出す、年老いることない仮面を被っていました。まるでスフィンクスのように。」

別の”共犯者”、マークの言葉は生々しい。
「全ての想像を超えていて、度肝を抜かれました。畏怖に値する行為です。
圧倒的な存在感があって、あの迫力は私の不安を彼方に吹き飛ばしました。」

アニーは、空を見上げていた。フィリップはもはや未知そのものと化し、遥か上空を悠々と歩いている。
「空中にフィリップが見えました。とんでもない光景でした。
とても、とても綺麗で…」
幅わずか数センチのワイヤーは遥か411m下、通勤ラッシュのニューヨーク路上からはほとんど見えなかった。そのため、フィリップは本当に空中を歩いているように見える。

「彼はまるで、雲の上を歩いているようでした。なんて素晴らしい瞬間…」アニーは記憶の中で空を歩くフィリップの姿に心酔しながら回想する。
「彼が横たわると…フィリップが上空に寝そべるその光景にゾクゾクさせられました。
素晴らしかった瞬間は他にもあって、彼が、彼が…」
あの日見た光景を今でも信じられない様子で、こめかみを抑え、祈るように語る。

「あまりにも美しくて…彼はひざまずいて、あいさつをしたんです…。」

アニーという女性は、フィリップのおとぎ話の中では、彼を見守り、勇気づける役割を担っていた。そして、彼女はフィリップに捧げる最後の仕事を全うしようとしていた。
それは、この歴史的な犯罪芸術を、多くの目に焼き付けさせる事だった。

「”見て!見て!”
私は叫びました。人々が立ち止まり、眺め始めるのですが、皆には見えないのです。
“あれは何だ?何が見えるんだ?”」

アニーは答える。「見て!綱渡りよ!彼が歩いているの!」

彼女の役割は、これで終結された。

未知こそが力の源

やがて、この奇妙なおとぎ話は、大きな転調を迎える。
挑戦、リスク、死、ワイヤー…およそ浮世離れしたフィリップの青空色の物語に突如として注ぎ入れられた黒いインクは、”現実”や”常識”の仮面を被った警官の姿を模った。

ノースタワーとサウスタワーの屋上に到着した警官たちの目に、フィリップの姿はどう映ったのだろうか。
チャールス・ダニエルス巡査部長は、まるで狐につままれたような表情で語る。
「本官は、綱の上の”ダンサー”を確認しました。あれは、”綱渡り”というようなものではありませんでした。」

地上の人間が持たない翼を得たフィリップは自由だ。「綱渡り師が寝そべって、カモメと対話している。この白昼夢に、彼らはどう反応していいかわからない様子でした。そこで彼らは、とりあえず滅茶苦茶に怒っていました。」

「フィリップは警官をからかいはじめました。いつものようにね。」フランソワはしたり顔だ。「だって、あいつはそういう奴なんです。」

パリの路上では、チョークで円形の聖域を描いた。ワールド・トレード・センターには、ワイヤーロープという聖域を掛けた。パフォーマンスをすれば、観客が集まる。やがて警官がやってくると、急いで道具を片付けて撤収する。単なるルーティンだ。地上411mで警官をからかって踊るのも、いつも通り、即興の演技に過ぎない。

「道端で演技をする時は…」フィリップは秘密を打ち明ける。「いつも即興を入れるんです。」

「即興が力をくれるのです。なぜなら、即興とは未知を受け入れる事だからです。
物事が”不可能”なのは、それが未知だからです。未知を受け入れる事で、不可能が可能になる気がするんです。」

さて、フィリップは、両塔の屋上で警官に挟まれた状況下で、”即興”を通じて未知と一体化する。
チャールス巡査部長にとって、その光景こそが未知であった。

「ワイヤーのおよそ中間地点で、彼は我々の姿を発見すると、微笑んで、笑い始め、ワイヤーの上で踊り始めたのであります。」

反逆の人生

地上に帰ってきたフィリップを待っていたのは、「どうして、あんな事を?」「なぜ?」と矢継ぎ早に飛び出す、人々からの疑問の声だった。

「なぜ?なぜ?とてもアメリカ的な質問です。僕は雄大で、神秘的な事を成し遂げました。すると返ってきたのは、”なぜ?”という現実の声。
理由などありません。だから美しいのです。」

まるでフォレスト・ガンプのようなおとぎ話を生きるフィリップにとって、人生は「チョコレートの箱」ではなく、反逆の連続である。

「人生は、命の淵になくては。反乱を起こすのです。」

67歳になる今もなお、滑稽な道化を演じ、創作の神に触れ、ワイヤーの上でジャグリングをしてみせる。
未知の領域に足を踏み入れ、不可能を可能にしていく。

「ルールに縛られる事を拒み、自らの成功を拒み、日々の繰り返しを拒み、毎日を、毎年を、あらゆるすべてを真の挑戦と心得る。
そうしてはじめて、綱渡りの人生を生きる事ができるのです。」

別れさえも美しい

フィリップは、アニーを思い出す。「アニーは…」

「アニーは、誰よりも僕を理解していて…。
アニーは、いつも僕のそばにいました。」

ワールド・トレード・センターでの”偉業”からほどなく、フィリップとアニーは別れた。
未知に挑む若き反逆児とそれを支えた女性の別れは、この物語の終幕を意味していた。

「彼は私が追うべき運命なんて、聞こうともしませんでした。つまり私は、彼を追い続ける事しかできませんでした。」

アニーは、あの日々が愛おしい。
「恋物語でした。…でも、輝きが過ぎ去り、新たな人生を歩み始めた時、あの人は私を去りました。

奇妙なことに、私も同じ気持ちでした。」

並外れた計画をフィリップに打ち明けられたあの日から、アニーは彼を地上から見上げ続けた。
ちょうどツインタワーを繋いだワイヤーが取り外されると、フィリップとアニーを繋いだ恋物語も去るだろう。
二人は、終わりを悟っていた。

 

「私達の関係は、これで終わりなのだと。
美しい別れでした。」

インスピレーション

45分の間に、8往復。

この綱渡りの後、フィリップは不法侵入と治安紊乱行為の罪で逮捕されるが、裁判では「セントラルパークで子どもたちにジャグリングを披露する」事を条件に容疑を撤回される。

未知やリスクを歓迎してきたフィリップでさえ、ワールド・トレード・センターへの挑戦は「無理」と感じ、最初の一歩は怖気づいた。
偽る必要はない。怖いのだ。それでも、恐怖の上を渡り切る事は不可能ではない。
未知なる恐怖を渡り切るのに必要なもの。フィリップは一語、「インスピレーション」を掲げる。

「己自身を力付ければ、他人をも力付けられます。
どうか忘れないで。その両腕に、羽を生やして。そして、飛び立つのです。」

1974年、史上最も美しい侵略を受けたワールド・トレード・センターは、この男に屋上展望デッキへの永久許可証を与えた。
2001年、史上最も残忍な侵略によってその姿を失った今も、あの屋上を歩いているようだ。

フィリップはいつでも、411mのあの高さに舞い戻る事ができる。彼にはインスピレーションの翼が宿っているからだ。

「心のなかに、一瞬にしてツインタワーを再建できるんです。」

この世界で、彼だけが見た景色。
未知の雲の中で得たインスピレーションを、フィリップは我々に分け与えてくれる。

「この世界を違った角度で眺めてください。
もし山が見えたとしても…」

 

真実が告げられる。

「覚えておいて。山は動かせるのだという事を。」

参考:
映画”Man on Wire”
http://www.ted.com/talks/philippe_petit_the_journey_across_the_high_wire
http://www.people.com/article/philippe-petit-9-11-world-trade-center-wire-the-walk

Writer

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中谷 直登Naoto Nakatani

THE RIVER創設者。代表。運営から記事執筆・取材まで。数多くのハリウッドスターにインタビューを行なっています。お問い合わせは nakatani@riverch.jp まで。

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