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映画化した意味はどこに?子連れ映画レビュー『ルドルフとイッパイアッテナ』

幼稚園が夏休みの間、我が家は映画館に頻繁に通っている。

猛暑で外では遊べないというのもあるのだが、そもそも我が子は映画館が大好き。怒涛のように公開ラッシュが続く夏休み映画を観たくて仕方がないのだ。『ハイ・ライズ』(R15)が観たい私の願いは叶うはずもなく、2日おきに映画館に通う日々が続いている。

と、いうわけで。せっかく観るのならば、レビューを書かない理由はない。

子連れ映画レビュー第一弾は『ルドルフとイッパイアッテナ』だ。

原作は斎藤洋によって書かれた大ヒット児童文学作品で、今回井上真央・鈴木亮平をはじめとする豪華俳優を声優に迎えてCG映画化された。

『ルドルフとイッパイアッテナ』あらすじ

ハプニングで飼い主の元から東京にきてしまった子猫のルドルフは、そこで文字を読むことができるボス猫イッパイアッテナに出会う。2匹は共に暮らすことになり、ルドルフはイッパイアッテナから野良猫として生きていく術と、字の読み書きを習う。やがて2匹は、ルドルフの飼い主が住む岐阜へと帰る方法を模索しはじめるのだが……。

なんのための、誰のための映画化なのか?

最初に断っておくと、私は原作未読だ。読んではいないものの、映画を観た上で想像するに、おそらく原作本は人生における教訓を伝えるような内容なのかなと想像する。きっと、イッパイアッテナが含蓄のある言葉を沢山発するのだろう。猫の姿を借りて、生きていくために大切なことを教えてくれるというスタイルなんじゃないだろうか。きっと、イッパイアッテナが凄くカッコイイのだろう。

しかし、私が観たのは映画版。映画版に限っていえば、正直言って全く心が躍らない作品だった。

子供向けの映画作品である以上、視覚的な面白さは必須だ。登場するキャラクターは猫なのだから、彼らがどんな風に野良猫生活をサバイヴしていくのか、出会う相手を敵か味方と判断する際にどういった行動をとるのか……。そんな細かい描写を期待したのだが、そういったシーンは最低限しか出てこない。

『ズートピア』のネズミの街や、『トイ・ストーリー』のオモチャの日常のような”想像を具現化するシーン”よりも、会話を中心としたドラマの運びに重きが置かれていた印象だ。

でも、それなら別に猫じゃなくてもよくないか?【山賊がいる森に迷い込んだ少年】が主人公でも同じだったんじゃないのか?

そもそもイッパイアッテナは元飼い猫で、野良猫とはいっても近所の人間に依存しまくって生きている存在。だから、大した危機も訪れないし、野良猫生活の苦しさもない。人間たちの理不尽な振る舞いに疑問をもつこともないし(よく考えれば理不尽な人間も出てくるのだがそうは描かれない)、途中で訪れるピンチも動物間のイザコザによるものだ。

肝心のドラマ部分にしても、映像ではなく言葉で進められていることがほとんどなので、視覚的に入ってこない。驚くほどサラリとしている。本ならばそれが正解だろう。しかし、これは映画なのだ。

そして、決定的なのは”教養”の扱い方。イッパイアッテナは文字の重要性を語る以上に、ことあるごとに”教養”という単語を口にする。文字によって得られる知識が増えれば”教養”が身につき、生きる力が強くなるんだぞ、ということなのだが、本作を見ている限り、実際に”教養”が彼らの身を助けているという実感がない。給食のメニューを読めることと、車のナンバープレートを読めることくらいだ。

“教養”とは、表面的な知識の積み重ねだけを指す言葉ではないだろう。深い知見に基づいた、心の豊かさを表す言葉のはずだ。本当の意味で子供たちに”教養”の大切さを伝えたいのであれば、理不尽な仕打ちを(暴力ではなく)毅然といなすとか、浅はかな認識から皆に誤解されている存在に対して、広い見地から理解を示すとか、そういったエピソードがほしい。言葉の大切さがテーマのひとつとなっているはずなのに、“教養”なんていう重要な言葉がテキトーに使われてしまっていることに、なによりも憤りを感じてしまった。原作では違うのだと信じたい。

ワクワクさせられないならば、夏休みの子供向け映画にする意味などないのではないか?素晴らしい原作が単調な説教映画になってしまったのだとしたら、原作を読み聞かせしてあげた方がずっといい。

いつもは観終わった後に必死で感想をまくしたてる息子だが、『ルドルフとイッパイアッテナ』に関してだけは、聞いても何の感想も言ってくれなかった。つまりは、そういうことなのだろう。

Writer

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umisodachi

ホラー以外はなんでも観る分析好きです。元イベントプロデューサー(ミュージカル・美術展など)。

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