Menu
(0)

Search

【解説 】マーティン・スコセッシはいかにして『沈黙-サイレンス-』を「宗教映画」の枷から救ったのか?

宗教を描く際のメタファーとメタ

自覚的な映画作家ほど、宗教をテーマに取り組むときはメタファー(暗喩)かメタフィクション(メタ=自らがフィクションであることに自覚的な作品構造のこと)を採用するのが常だ。なぜなら、宗教を直接的に描けば描くほど、観客の視点は作品論ではなく宗教論へと誘導される。そんな傾向はときとして、観客から狂信的な歓迎を招く一方で、同じくらい強烈な拒絶反応を招くことになるだろう。

映画史上、もっとも有名な賛否両論を起こした宗教映画は、町山智浩氏が著書『最も危険なアメリカ映画』で指摘したように、D.W.グリフィス監督『國民の創生』(1915)である。21世紀で言えば、『パッション』(’04)が招いた宗教論争を覚えている人も多いはずだ。聖書の内容を絶対的な真実とする『パッション』にはそれゆえの矛盾点と問題点も満載で、キリスト教原理主義者とその他の人々との間に大きな温度差を生じさせた。

ダーレン・アロノフスキーの『レスラー』(’08)は主人公の老レスラーをキリストの殉教になぞらえるというメタファー表現により、直接的に宗教世界を描いた同監督の『ファウンテン 永遠につづく愛』(’06)、『ノア 約束の箱舟』(’14)以上の間口の広さを獲得した。また、うつ病を患ったことで宗教への懐疑心を高めたラース・フォン・トリアーは『アンチクライスト』(’09)で反キリスト教の世界をあくまでメタ的に描くことで(独善的な夫を演じるウィリアム・デフォーは『最後の誘惑』(’88)でキリストを演じたことがある)フィクションと宗教的言及のバランスを保ってみせた。彼らにとっての重要事項は現実の宗教界と信者に問題提起することではなく、自らの表現を完遂させることだったからである。

スコセッシにとっての重い現実、『沈黙』

しかし、マーティン・スコセッシ『沈黙-サイレンス-』は最初からメタファーもメタも切り離した場所から制作をスタートさせる必要があった。それは遠藤周作の原作に忠実な映像化を試みたこと、スコセッシ自身がカトリック司祭になろうとしていた過去があったこと、登場人物の多くが架空であるものの江戸時代の日本で行われていたキリシタン弾圧という史実を描いた物語であることなど複数の理由が挙げられる。『沈黙-サイレンス-』はスコセッシにとって、メタファーやメタで表現できないほど重い「現実」だったのである。

もちろん、映像表現としてのメタファーは本作にも散りばめられている。劇中では数々の拷問シーンと美しい日本の自然が対比されていくが、そこで見せるロングショットは他ならぬ神の俯瞰の視点だ。冒頭とラストで画面を覆う闇も、映画を見た人からすれば何を意味しているか一目瞭然だろう。

ただし、原作に入れ込んでいたスコセッシにとって、『沈黙』のテーマ性を湾曲するような過大解釈は禁忌だった(その点が篠田正浩版『沈黙』’71)との決定的な違いである)。作品の全体像を決定づけるようなメタファーは周到に避けられることよって、スコセッシ版『沈黙』は教科書的ともいうべきショットの凄まじさと編集の素晴らしさに彩られたウェルメイドな触感となっている。

それでも、宗教を映画いた作品にはいくらでも過大解釈の余地が入り込み、「宗教映画」へと変貌してしまう。何故か?

宗教とは信じる者の心にそれぞれの神を存在させるからである。スコセッシがどれだけ丹念に「原作通り」を完遂しようとしても、十人十色の信者たちが連想するメタファー全てから逃れることは不可能だ。人によっては塚本晋也の捕らえられた姿にキリストの影を見るだろう。意図的な描写かもしれないし、意図しないところかもしれない。問題は、メタファーやメタフィクションを用いずに宗教映画を完成させ、そのうえで『パッション』のような福音派向け作品と思われないことは非常に困難な「ミッション」だということだ(ローランド・ジョフィ監督『ミッション』’86)は相当いい線行っていたと思うが、あれは宗教映画というより大河ドラマなので)。そして、そもそも『沈黙』原作は、敬虔なキリスト教信者の期待に満ちた解釈を誘導し、裏切る展開が印象的な小説である。映画版でもその構成は踏襲しており、いわば「前振り」である期待の部分に焦点が当てられすぎるのは作品の誤解につながってしまう。

宗教映画から逃れるためのシンプルなお家芸

繰り返すが、スコセッシにとっての『沈黙-サイレンス-』は思い入れの強すぎる企画であり、ライフワークに近かった一本だ。『最後の誘惑』が興行的にも批評的にも微妙だったことを考えると、老齢を迎えて挑む、カトリックを題材にした本作に賭けていたモチベーションは想像に難くない。スコセッシにとっての『沈黙』は、観客にとってメタファーやメタの届かない場所で、スコセッシが原作に感じたのと同じようなリアルな触感を観客に伝えなければいけない一本だったのである。さもなければ、『沈黙』が『パッション』のような宗教ポルノに堕ちるか、アート系映画といういまや不名誉な称号を贈られる可能性が生まれてしまっただろう。

そこで、スコセッシがとった方法はシンプルだった。原作の中でもっともリアルな感触があり、言語の説明を必要としない描写の映像化に心血を注いだのだ。つまり、拷問である。

『パッション』はキリストの殉教と復活を盛り上げるためのポルノグラフィティーとして拷問シーンが機能していたが、スコセッシの演出はどこまでも観客の神経を逆なですることに費やされる。(驚くべきことに)原作通りの拷問器具の数々、そしてその実践方法が、『パッション』の恍惚を期待して劇場に駆けつけた福音派を絶望に突き落とすだろう。荒波に打たれ続けたキリシタンたちの傷んだ肌にこそ、「穴吊り」の呆気なさにこそ、スコセッシの真骨頂がある。そこでは、暴力がただ暴力として提示され続ける。今ではスタイリッシュな映画の代名詞となっている『タクシードライバー』や『グッドフェローズ』がいかにグロテスクな暴力描写に満ちていたか、我々は思い出すだろう。

スコセッシは微塵の感動もなく暴力を撮るというお家芸によって、『沈黙-サイレンス-』を宗教映画ではなく現実を描いた映画として完成させた。だからこそ、『沈黙-サイレンス-』は人種や宗教を問わず、人の心を打つ傑作となりえたのである。

画像:(C)2016 FM Films, LLC. All Rights Reserved.

Writer

アバター画像
石塚 就一就一 石塚

京都在住、農業兼映画ライター。他、映画芸術誌、SPOTTED701誌などで執筆経験アリ。京都で映画のイベントに関わりつつ、執筆業と京野菜作りに勤しんでいます。

Ranking

Daily

Weekly

Monthly