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【考察】『SING/シング』に込められた”歌う”ことの意味 ─ キャラクター別、表現行為の観点から

イルミネーション・エンターテイメントの最新作『SING/シング』が日本公開されて久しいです。
ネット上ではキュートな動物たちの二次創作が後を絶たず、池袋パルコではSINGカフェなんてものも催されているらしく、かなりの盛り上がりを見せています。

漏れず筆者も鑑賞し、『SING/シング』というアニメ映画には「エンターテイメントを追求する狂気」という裏テーマがあるのではないか?という切り口で以前に記事を書かせていただきました。

https://theriver.jp/sing-review/

 

今回は前回の記事とはまた違った別の視点でこの作品について考えたいと思います。

【注意】

この記事には、『SING/シング』に関するネタバレ内容が含まれています。

世界観の寓意性は薄い?

のっけから出てくる秘書のイグアナのミス・クローリーは斜視です。色とりどりの衣装を纏いきゃりーぱみゅぱみゅを踊るレッサーパンダたちは明らかに日本人ですし(アメリカ的には今やこれが日本のアイコンということなのでしょうか)、公園で太極拳をする集団は中国人を連想させます。バスター・ムーンの挨拶は”Ladies and gentlemen” ではなく”All creatures great and small”. さらに映画の途中でミス・クローリーは斜視ではなく義眼だったということが明らかになります。

身体性や人種の多様性がテーマのアニメ作品なのか?と一瞬身構えをせずにはいられませんでしたが、その予想に反して『SING/シング』はそのような啓蒙的なメッセージは薄く、『ズートピア』などのような露骨なメタファーは特にこれといって込められていなかったような印象があります。(政治的暗喩が隠されていたら隠されていたで「ズートピアの焼き増しだ」というような批判を浴びることになるのかもしれませんが)

それぞれのキャラクターが抱える問題も身体的特徴や人種的な違いに由来するものではなく非常に普遍的な家族関係の摩耗や恋愛関係の歪みです。しかし決して肩透かしを食らったというわけではありませんでした。この映画にはまた別のテーマが設定されています。『SING/シング』は「歌う」という行為をとても丁寧に描いている作品といえます。まさにそのタイトルの通りの良品です。

「歌う」という行為

前回記事では「エンターテイメント・芸術への狂気的な追求」について考察しましたが、そもそも数ある表現手段の中からどうして「歌」が選ばれたのでしょうか?
映画に関わらず、作品のテーマはタイトルに集約されます。それは『SING/シング』とて例外ではないはずです。では、SING ─ 歌うとは何でしょうか?という疑問に目を向けてこの映画を語ろうと思います。

(C)Universal Studios.
(C)Universal Studios.

「歌う」というのは声を介して自分と他人をと繋ぐ非常に身体的な表現行為です。現代では音楽というメディアは歴史も長く文化的な営みなようにも思えます。しかし有史以前、歌は(音楽ではなく歌です)難しいことを考える隙を与えずに感情から滲み出す音声であり、非常に原始的なものでした。機嫌の良いときに何となく漏れだす鼻歌や声をあげて泣く行為などはその良い例と言えます。言葉の扱えない赤ちゃんでも、気分が良いと歌い、食欲が高まったり体に不調を覚えると泣きだしてしまいます。声から発するメロディーをすべて歌とした場合、このように歌は言語よりも早くに発達したコミュニケーション手段・表現手段だといえます。

『SING/シング』は特に表現としての歌─ 歌うために歌う、という表現に対する欲求を讃えた映画です。

人前で歌うことが出来ないミーナに”Do you like to sing? “とムーンが励ますシーンがあるのですが、この場面のこの台詞はかなり象徴的なキラーフレーズのうちのひとつです。『SING/シング』には様々なバックグラウンドで鉛のような不安や針に刺されたような悲しみを抱えたキャラクターたちが登場します。しかし、問題解決の糸口として歌を利用するのではありません。お金のために歌うのではなく、名声のために歌うのでもありません。彼らは歌うために歌っているのです

これだけでは何のことかさっぱりだと思うので以下、キャラクターごとに具体的な例をいくつかあげて説明します。

サブ⑦

バスター・ムーン

彼は一貫してショーを成功させようとひたむきに努力を続けるという基本の軸は終始ぶれていないものの、映画前半部分においては「銀行への返済」そしてそのための「興行収入」という目標がノイズとなっていて根底にあるショーへの欲望が少しぼやけてしまっています。しかし劇場が瓦解しこれらの課題をクリアする必要はなくなるとエンターテイメントそのものだけに集中するようになります。彼の場合は歌うことはありませんが、面白いことを徹底的に追求したいというエンターテイメントショーに対しての狂気的な執着がうかがえます。

マイク

音楽院出身であることを自負する権威主義者。彼は野外ライブに賞金が出ないとわかるとそっぽを向き姿を消してしまいます。一見するといままでこの記事内で繰り返してきた「歌うために歌う」という原理から外れた存在ですが、街頭でテレビ中継に群がる群衆を見て「本物のショーを見せてやる」と奮い立ち劇場へ舞い戻ります。マイクもやはり最後は金や名声のためではなく自らの表現を信じ、それを証明するためだけにステージに立ちます。このようにフィナーレではしっかりと彼もこの基本原理に則って素晴らしいパフォーマンスを披露してくれています。

ロジータ

育児に家事に多忙なロジータの生活の隙間を彩るのは歌うという行為でした。聴衆がいなくても彼女は無意識に歌いながら日々を送っていたようです。冒頭でロジータのこどもの一人がロジータの歌のモノマネをすると他のこどもに大ウケする場面があります。これはつまり「あるあるネタ」として成立しているということでしょう。それほどまでまるで息をするかのように歌い続けていたのでしょう。

家じゅうのものをかき集めてピタゴラ装置を作るくだりはコミカルで笑えるシーンです。しかし一方でそれまでの家事や育児が機械的な単純労働であったということを裏打ちする背筋の凍るシーンでもあります。チャップリンの『モダン・タイムス』を彷彿とさせますね。夫との最初の会話も「車のキーはどこだ?」という無機質なものでしたし、「オーディションの予選に通った」という彼女のパーソナルな話題を夫は聞きもせず仕事に疲れて寝落ちしてしまいます。驚くことにピタゴラ装置ができてから壊れてしまうまでの間にロジータが不在であることに気付いた者は誰もいません。(いや普通気づくやろ、というギャグですが)

このような環境の中で彼女の自己実現・自己表現の手段として歌が存在します。日々の生活に個人的な営みがないからこそ、それを歌うという行為の中に見出します。

また中盤でダンスのステップを覚えることに苦戦を強いられるのですが、ある日彼女は偶然にも内から湧き出る感情に任せて自然に身体を揺らすという成功体験を手に入れます。この場合は生憎歌ではありませんが、「思考」よりも前の段階の「感情」が直に表現行為と繋がる瞬間が描かれています。

ジョニー

コワモテの親父に仕事(強盗ですが)をサボってオーディションに現を抜かしていたことが知れてしまい「お前なんか息子ではない」とに激昂されて大層傷心気味のジョニー。傷が癒えきらぬまま野外ライブの幕が上がります。

カンカンに怒って不貞腐れていた親父ですが、テレビ中継を通してその歌声に感化されてジョニーを許すようになります。結果としては左の通りですが、これはジョニーが意図したものではありません。ショーがテレビ中継されること、それを父親が獄中で見ていることは到底予想できないでしょう。したがって、当時のジョニーにとってステージで歌うことは親子関係の亀裂の修復にまったく関係のない行いです。むしろその溝を深めることになるかもしれません。にもかかわらず彼はマイクを取ることを選択します。声がある限りジョニーは歌わずにはいられないのです。

また、この話とは少し脱線しますが歌を聴いたジョニーの父親が脱走していることも重要です。日頃からしっかりと体を鍛え、強盗の際には地図とミニチュアで綿密にシュミレーションを重ね、分刻みのスケジューリングを組み、新人の訓練も怠らない男でした。目的が犯罪行為(その中でもかなり物騒な)なのが残念ですが、ジョニーの親父はかなり慎重な男であったといえます。

けれども、ジョニーの歌声を一たび浴びせられると彼は身体を震わせ、気持ちが昂りに昂って衝動的な脱走に踏み切ります。同じ人間の(ゴリラですが)する行為とは思えませんね。

このように歌は他者の感情を揺さぶり、時に身体までもを動かさせることがある、という歌のもつ原初的な魔力――コミュニケーション手段としての歌――もまた映像的に表現されています。

ミーナ

圧倒的な歌唱力を持ちながらも人前で歌うことに極度の恐怖心を抱くミーナ。ひとたび歌いだせばすべてを忘れる、というムーンのアドバイスを頼りになんとか最後のステージに立つことが出来ます。

注目すべきはミーナはあがり症を克服したというわけではないところにあります。人前に立つのは依然として苦手なままですがいざ歌いだせば歌唱することに夢中になって自分が歌っていること以外の全てのことを人の目、人の評価を脳内で強制的にリセットして歌っています。彼女もまた歌うということが好きだから―――歌うために歌っているわけです。

声量がすごすぎてステージのセットが壊れてしまうくだりは一種わかりやすいギャグでもありますが、同時に自分が歌っている間はそのような危機にすら感心を払わないほど頭のメモリーの100%を歌うという行為に割いているということの表象でもあります。

アッシュ

ヤマアラシの彼女は最初は彼氏のバンドのコーラス担当でした。オーディション自体も彼氏に手を引かれるような形で参加するのですが、幸か不幸か彼女「だけ」が一次審査を通ってしまいます。
愛する彼氏のサポートに回りたい、しかしその一方で自らの歌声を通した自己表現をしたい。そんなジレンマを抱えた彼女がヤマアラシに扮しているということももしかしたら制作陣の狙いなのかもしれません。

彼女のターニングポイントはいうまでもなく彼氏の浮気。なぜバンドマンはいつも浮気をしてしまうのでしょうか。不思議なものです。彼氏は他の女に現を抜かすどころか、かつて「ダサい」と揶揄していたようなポップな音楽を別の女と演奏しています。アッシュにとってある意味ではセックスに鉢合わせることよりも辛く苦しかったのではないでしょうか。

これを契機に彼女は自作楽曲の制作をはじめます。今度は彼氏の作った音楽でも、ムーンに押し付けられた曲でもありません。自分の感情を自分の言葉で語り、自分のギターに乗せて自分の歌声で表現しています。かなりレベルの高い自己実現がここにあります。ギターを用いての楽曲制作は原始的なイメージとはかけ離れますが、彼女もまた表現をしたいという原初的な欲求に忠実にステージに上がっているといえます。

おわりに

ヒット曲を大量に折り込めばよいだろう、音楽と映像とを歯切れよく組み合わせれば心地よいだろう、というような安直な考えだけに基づいて作られた映画でないことは確かです。歌う、という行為とその魅力について徹底的に向き合い丁寧に作り込まれた映画だったのではないでしょうかと個人的には考えております。今後のイルミネーションの作品にも目が離せません。

https://theriver.jp/sing-review/

(C)Universal Studios.

Writer

けわい

不器用なので若さが武器になりません。西宮市在住。