ホロコーストという題材は重いが、人物の葛藤を描ききれず…映画『アイヒマン・ショー 歴史を映した男たち』レビュー
『アイヒマン・ショー 歴史を映した男たち』レビュー・評価
1961年、イスラエルにて行われたナチス戦犯 アドルフ・アイヒマンの裁判。
その様子をカメラに収め、世界へと届けた男たちの物語だ。
ホロコーストを描いているからには、観る側にも覚悟が伴う。
映し出された映像の数々に目を背けたくなった。
だが、この作品はあくまでも 裁判の様子をTV中継する男たちに焦点を当てたものだ。
そういった意味では物足りないものがあった。
何故彼らがその行動を起こすのか。
それを貫き通す彼らの信念が序盤の内にしっかりと描かれていないため、作品世界に入り込むことが中々難しい。
状況説明と言わんばかりのセリフに始まり、描かれるのは起きている事象のみで 登場人物達の葛藤やアイヒマンに対する想いがこれっぽっちも伝わってこない。
裁判が始まり、その模様を見ていれば否が応でも引きずり込まれる。
ぼくらはそれが事実であり 実際に起きたことだと知っているからだ。
その引力によって心を鷲掴みにされ、劇中に映し出される番組の視聴者や ラジオに耳を傾ける人達と同じ立場になる。
だが、それはホロコーストという事実によって引き込まれているだけで 今作の売りである「歴史を映した男たち」によるものではない。
TVショーとしてアイヒマンの裁判を世に送り出したいフルックマン(マーティン・フリーマン)と、何がアイヒマンをそこに至らせたのかを映し出したいフルビッツ(アンソニー・ラパリア)の衝突
序盤で彼らの人となりやアイヒマンへの思惑を明確に示していないため、魅力あるシーンにまでは達していない。
ホロコーストという題材故に 深く 重く 響くものはあるが、焦点を当てて描くべき男たちの人間性が 心の葛藤がしっかりと描けていない。
平凡な男が狂気の道へと足を進めた
自分達だって状況次第で彼と同じ道を辿る可能性がある。
何が男を変えたのか
それを世に届けたいというフルビッツの言葉にとても引き込まれた。
そういった彼らの葛藤にもっともっと焦点を当てて描いていたのならば、映画としても十分重いものに成り得ていた。

どれだけ早い段階で観客の心を掴めるか。
それも映画の作りにおいて大事なことのひとつだと思います。