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上映中の笑い声や歓声、拍手のマナーを考える ─ 日本の映画館はなぜ静かなのか

ほぼ全編が名場面の『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』(2018)だが、個人的なベストシーンはキャプテン・アメリカことスティーブ・ロジャースの登場シーンである。ピンチの場面に現れたスティーブ。あまりにも完璧な演出とタイミングに、思わず劇場で歓声を上げそうになった。

そして、実際に声を上げた人も大勢いる。アメコミ映画にまつわる恒例行事として、欧米の観客のリアクションを隠し撮りした映像が動画サイトに次々にアップされていく。確認する限り、前述のスティーブ登場では、劇場中が拍手喝采の大歓声である。その後、コミカルなシーンでは愛のある野次が飛び、シリアスなシーンでは溜息が出る。そして、アクションシーンでは再び歓声がわく。現在、日本の劇場で、ここまでの盛り上がりはちょっと想像しにくい。こうした盗撮動画自体が違法行為であるのは大前提だが、それでも海外の映画館の雰囲気が、日本のそれと違いすぎてびっくりした人は多いだろう。 

筆者をはじめとして、「日本でも海外のように大騒ぎしながら映画館を楽しみたい」という人は少なくないはずだ。なら、どうして今の日本の映画館では、「観客が静かに楽しむこと」がデフォルトとなってしまったのだろう?そして、今後、観客が声を上げて映画を観る習慣は日本でも定着するのだろうか?

映画館で声を上げることが普通の世代も

ところで、筆者が友人に「俺も映画館で『アベンジャーズインフィニティ・ウォー』を観ながら声を上げたいんだよね」と愚痴っていたとき、友人は「いや、俺が観た回は普通に声が上がってたよ」と返してきた。よく聞けば、友人の真後ろに座っていた老婦人ペアが、上映中ずっと拍手や歓声とともに鑑賞していたらしい。ちなみに、2人がもっとも大きな拍手をしたのはソーがストームブレイカーを持って地球に舞い戻ってくるシーンだったそうな。ただ、その2人を除くと友人も含めた他の観客は静かに鑑賞していたという。 

筆者の実感としても、お年寄りはわりと映画館で声を上げる。それは決してマナーが悪いという意味ではない。彼ら彼女らにとって、映画館で声を出すのも作品鑑賞の一部なのである。筆者が住む京都府には京都文化博物館フィルム・シアターという場所があり、ほぼ毎日、日本映画の名作が上映されている。料金も安いので、通っているお年寄りは多い。若い頃の筆者も、お年寄りに囲まれて古い映画をたくさん観た。すると、お年寄りのリアクションが、若い観客よりもはるかに大きいと気づく。お年寄りはスター俳優の登場とともに拍手を贈り、ときには「いよっ」とスクリーンに向かって声をかけることすらあったのだ。

先ほど、「日本の映画館は静か」だと書いたが、それはあくまでここ2030年ほどの常識でしかない。かつて、日本の観客も映画館で声を出すことにためらわない時代はあった。そして、それは決して「周囲の迷惑を考えずに大騒ぎをする」「映画などそっちのけで私語をする」ことではない。その場にいる大勢で声を上げ、笑い、泣くうちに観客同士の一体感が生まれる。いわば、コンサートのように映画を楽しむ術が、日本人にもきちんと身についていたはずなのだ。

なぜ映画館で盛り上がる文化は日本で廃れた?

一方で、その背景には「観客が声を上げるような工夫」が劇中になされていた点を見逃してはいけない。昔の映画撮影所で量産されていた時代劇、人情喜劇、仁侠映画などはスター俳優を起用した「定番の構成」が売りだった。いわゆるプログラム・ピクチャーである。歌舞伎役者が見得を切るようにわかりやすい見せ場が用意されていたため、観客はそのタイミングで思わずリアクションをとってしまう。しかし、撮影所のシステムが崩壊したと同時に、プログラム・ピクチャーのメソッドは失われた。そして、観客の世代交代が起こるのである。

映画スターも、お約束のシーンもなくなった現在の日本映画では、観客は沸きどころを見つけにくい。一方、マーベル・シネマティック・ユニバースMCU)作品をはじめとして、欧米の娯楽映画には「劇場を盛り上げる」意図が残されている。いまや、日本でも劇場で声を上げたいタイプの観客は外国映画に頼るしかない。

しかし、外国映画では「言葉」と「文化」の壁が立ちふさがる。海外アーティストのライブ中、MCになると日本の観客が静まり返ってしまう光景は定番化しているが、観客が目の前の出来事に興奮するためには言葉の問題がそれほどまでに大きいのだ。元の台詞が平坦に訳された字幕では、言葉の壁を乗り越えにくい。

そして、海外の作り手がウケを狙っているにもかかわらず、日本の観客には伝わりきらないこともある。筆者の友人は『レディ・バード』(2017)をアメリカの劇場で観た。そのとき、ヒロインが18歳の誕生日に、売店でプレイボーイ誌とタバコを買うシーンで爆笑が起きて驚いたという。後で現地の知人に確認してみたところ、アメリカでは18歳になった男子がプレイボーイとタバコを買うのが通過儀礼なのだと教えてもらった。それを女子がやっているのが面白くて観客は笑っていたのである。こうした文化の違いにより、日本の観客は数多くの沸きどころを見逃してしまっているのだろう。

繰り返されるマナー喚起を真面目に受け止めすぎた結果

日本の映画館が静かになっていった原因として、繰り返される「マナー喚起」も挙げられる。映画館で本編上映の直前になって流される、アレだ。おそらく、こうした類の映像は欧米でも流れているだろう。しかし、根が真面目な日本人はマナー喚起を真剣に受け止めすぎて、厳密に守らなければいけないと思い込んでしまうのではないか。マナー映像では「前の席を蹴らない」「盗撮をしない」など、ごく常識的な警告もある。ただ、「上映中は静かに」という文言がいつのまにか拡大解釈されている感は否めない。もちろん、上映中も私語をやめない観客は迷惑でしかない。だが、「静かに」を徹底して守ろうとすれば、映画で笑ったり泣いたりするのもマナー違反となってしまう。 

「そこは言葉のあやなのだから、臨機応変に解釈すればいい」という人もいるだろう。筆者もそう思う。だが実際、筆者は映画館で笑っていて、前の席の観客から怒られた経験が何度かある。そのうちの1回は『ムービー43』(2013)鑑賞中だった。ヒュー・ジャックマンが首に○○をぶら下げているような映画である。だが、マナーに忠実であろうとすれば悪いのは筆者であり、正しいのは注意した観客だ。それでも、釈然としない思いは残る。 

多様化する観客に囲まれて声を上げる勇気はある?

そもそも、心躍るミュージカル映画や、大迫力のアクション映画にまで「上映中は静かに」と強要するのは矛盾ではないか。そこで、劇場側は「歌詞付上映」「絶叫上映」という形で、観客が声を上げるのを奨励する回を実施し始めた。しかし、こうした取り組みが万人に受け入れられているかは怪しい。SNS上では、「声を上げていいと言われて見に行ったのに、観客は全員静かなままだった」「声を上げたら怒られた」との報告もなされているからだ。筆者は「絶叫上映」という試み自体は面白いと感じるし、肯定的に捉えている。ただ、絶叫上映で観客がサイリウムや鳴り物を持ち込み、騒げるのはあくまで劇場側の主導があってこそである。「日本の観客が変わった」とまではいかないのではないか。 

内向的で秩序を愛する日本人の気質ゆえ、一度「映画は静かに観る」という常識ができてしまったら、それを覆すのには時間がかかる。たとえ上映側が歌唱や歓声を主導していたとしても、観客が固定観念を突き破るのは難しい。現在のシネコン、ミニシアターでは映画を「静かに観る」のが大原則となっている。笑い声さえ怒られる可能性がある場所で、絶叫上映などの機会でもないのに、自主的に声を上げようと考える人はかなりの勇者だろう。

そう、「映画館で騒いで何が悪い」と強く主張するには、日本の観客はあまりにも多様化しすぎている。「作品にかかわらず映画館ではわずかな声を出すな」と考える人を闇雲に否定できない。そうした人を生み出したのは、現代日本の映画文化そのものなのだから。筆者は「映画を静かに観る」のが常識になっている世の中を窮屈だと思うし、許されるなら欧米のように、『アベンジャーズインフィニティ・ウォー』をワイワイ騒ぎながら観たい。だが、それを迷惑に感じる観客がいる以上、現行のマナーを尊重せざるをえないのだろうと諦めてもいる。

特殊な機会なら劇場で騒ぐことも可能

では、日本に再び「上映中に声を上げる文化」が根付くことはないのだろうか?日本的映画館のスタンダードから外れた例として、「イベント上映」「映画祭」が挙げられる。代表的なのは、『ロッキー・ホラー・ショー』(1975)のパフォーマンス上映を全国で行っているLIP’Sだ。登場人物のコスプレをしたLIP’Sメンバーは上映前からここぞとばかりに観客を煽り、上映中も妖艶なダンスで会場を盛り上げる。観客全員で歌い踊る「Time Warp」は最高だ。そして、LIP’Sを一度でも目撃した観客は、次回以降、他の観客の手本となって積極的に声を上げるのである。

これだけ聞くと絶叫上映に近いようにも思えるだろう。しかし、LIP’Sのパフォーマンスは大がかりだが、欧米の感覚に照らし合わせると決して奇をてらった内容でもない。欧米では『ロッキー・ホラー・ショー』リバイバル上映で、観客が小道具を持ち込んで騒ぐのがお約束になっている。LIP’Sは『ロッキー・ホラー・ショー』が本場でどのように愛されているのかを、楽しく日本人に紹介しているのだ。そして、こうした楽しみ方が定着したのは、劇場に先導されたわけではなく作品のファンたちが自発的に動いた結果だ。熱い観客たちがリバイバル上映に何度も足を運び、徐々にイベントのメソッドを築いでいったのである。LIP’Sのような団体は世界中に存在し、今もなお『ロッキー・ホラー・ショー』を盛り上げてくれている。

共通の趣味を持った人間が集まる映画祭でも、上映中の歓声や拍手はおなじみの光景だ。「映画館で声を上げたい」人間がいなくなったわけではない。ただ、一般的な映画館で実践するハードルがあまりにも高くなってしまったのも事実である。何がなんでも映画館で声を上げたい人は、同じ考えの人が集まる特殊な機会を探してみるのが無難ではあるだろう。

サイレント映画などこの世にはない

とはいえ、普通の映画館の通常回でも自然発生的に観客が声をあげ、会場が一体感を増していくぶんには「静かに観る派」からも許されるのではないか。筆者は『イングロリアス・バスターズ』(2009)を日本公開初日に梅田のシネコンで観た。劇場でもっとも大きいスクリーンだったが、会場は半分ほどの埋まり具合だった。ところが、中盤あたりからことあるごとに歓声や爆笑が起こるようになり、ラストシーンでは劇伴がかき消されるほどの拍手が鳴り響いたのである。決して、一部のマナーの悪い観客が勝手に騒いでいたわけではない。それだけ作品が面白かったのだ。まさに映画の力を実感した時間だった。 

以前、日本チャップリン協会の大野裕之さんが、チャンプリン作品のリバイバル上映前にこんなことを言っていたのを聞いた。

「チャップリンはサイレント映画じゃありません。お客さんが笑って観ている限り、劇場には音があるのです。本当のサイレント映画は、誰も何も反応しない映画のこと。みなさん、どんどん映画を観て笑いましょう。」 

筆者は何も「劇場のマナーなど無視してどんどん騒げ」と書きたいわけではない。だが、エンタテインメントに対する自然な反応として声が上がるのは不可抗力だし、それを抑制しようと努力する必要はないと思うのだ。そして、自然に起こる歓声や拍手に対しては、「静かに観る派」の人も寛容になってほしい。そうやっていつか、映画館が「いるだけで楽しい場所」に変われば、日本の映画館人口も回復するのではないだろうか。

Writer

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石塚 就一就一 石塚

京都在住、農業兼映画ライター。他、映画芸術誌、SPOTTED701誌などで執筆経験アリ。京都で映画のイベントに関わりつつ、執筆業と京野菜作りに勤しんでいます。

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