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【レビュー】『最後のジェダイ』はいかにしてスター・ウォーズの伝説をリセットしたか ─ 「古いものは滅びるべき」

©Walt Disney Studios Motion Pictures ©2017 & TM Lucasfilm Ltd. 写真:ゼータ イメージ

けじめをつけよう。スター・ウォーズはリセットされた。カイロ・レンの望み通り、過去は葬られ、『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』(2017)は新たなスター・ウォーズを立ち上げた。これぞ新世代のスター・ウォーズだ、と評価する声に納得することはできる。しかし、このスペース・オペラを心の支えとして生きてきた筆者は、『最後のジェダイ』二度目の鑑賞を終えて静かに確信したのだ。スター・ウォーズは死んだのだと。(以後ネタバレを含みます)

注意

この記事には、『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』のネタバレ内容が含まれています。

©Walt Disney Studios Motion Pictures ©2017 & TM Lucasfilm Ltd. 写真:ゼータ イメージ

「これはお前の思っているようにはいかない」、「殺してでも過去を葬る」──『最後のジェダイ』は、スター・ウォーズの約束と作法をことごとく捨て去った。ひとつの時代が終演を迎えたのだと、この映画は何度もわかりやすく明示した。これまでのスター・ウォーズを象徴する様々な要素を、次々と(時に雑に)捨てていった。

投げ捨てられた伝説

ルーク・スカイウォーカーは、『フォースの覚醒』(2015)でついに受け取ったライトセイバーを投げ捨てた。かつてアナキン・スカイウォーカーが扱い、オビ=ワンが回収した後にルークの手に渡ったこのセイバーは、ベイダーとの戦いで右手ごと斬り落とされて行方不明になっていた。どういうわけか『フォースの覚醒』ではマズ・カナタが保管していたが、明らかに大切なアイテムとして登場させていた。あのライトセイバーを光らせるのは、長きに渡るファンたちの想いなのだ。

『最後のジェダイ』は、開始わずか数分で、ルーク・スカイウォーカー本人にその想いを葬らせたのである。その後すぐに明かされるように、ルークは疲弊し、心を閉ざしていた。しかし、ルークにライトセイバーを投げ捨てさせる必要性は本当にあったのだろうか。この類の描写は、パロディであるロボットチキンの仕事だったはずだ。拒絶することを示すなら、レイにそのまま返すとか、足元に落とすだけでも良かったはずである。捨てられたセイバーはその後偶然にも地上で見つかったが、あのまま海に落下して回収不可能になっていた可能性もある。上滑りのコメディセンスは幻滅を誘うのみだ。

「これはただの映画だ。観て、ただ楽しむものなんだ。夕日みたいなものさ。そこにどんな意味があるのかなんて心配しなくていい。”素晴らしい”って言うだけで充分なんだ」──創造主ジョージ・ルーカスによる、1981年のインタビューの言葉である(※)。『最後のジェダイ』のルーク・スカイウォーカーは、映画の過剰な神格化に疲れ切っていたかつてのジョージ・ルーカスそのものだった。ジェダイや自分に対する幻想を重荷に感じていたルークが「ジェダイは終りを迎えるべき」としたように、ルーカスフィルム/ディズニーは『最後のジェダイ』を以ってこれまでのスター・ウォーズを終わらせたのだ。

※「スター・ウォーズはいかにして宇宙を征服したのか」クリス・テイラー(著)、児島修(翻訳)、パブラボ、2015年

大いなる虚無の到来

これまでスター・ウォーズ・ファンは、新たなキャラクターたちの謎を過去のキャラクターたちに結びつけようとした。なぜか。そうあってくれた方が安らぐからである。スノークの正体が、レイやフィンの親が、過去に登場したキャラクターに深く関連するのではと考えることは、まるで心の中で子供部屋に戻り、あの頃のおもちゃ箱の中からフィギュアを取り出すかのような、ぬるく閉ざした感覚に浸ることができるからである。『最後のジェダイ』は、子供の顔のままおもちゃ箱を漁るような、過去に囚われたファンたちを断った。スノークは結局のところ何者かも明かされぬまま、尊厳も与えられずにみすぼらしく死んだ。レイの両親はジェダイでも、ましてや無原罪の御宿りでも何でもなく、名もなき者から生まれ、酒代のために売り捨てられたという設定が明かされた。

この設定は、スター・ウォーズ文化の屋台骨の一つとも言える「考察」の要素を完全に断ち切ることになった。冒頭のスカイウォーカー・ライトセイバーを投げ捨てる描写でさえ、「あのセイバーを巡ってどんな物語があったのか?」と思いを巡らせる気持ちをあざ笑い、「スノークの正体はこうじゃないか」「レイはこういう生まれなんじゃないか」と意見を交わし合う者たちに「これはただの映画だ」「そこにどんな意味があるのかなんて心配しなくていい」というルーカスの古い言葉を突きつけた。とはいえこれまでは、『フォースの覚醒』でさえ「余白」を残していた。スノークは実体を明かさないことで神秘性を煽り、レイのフラッシュバックは並々ならぬ運命を期待させた。結局のところ、過去7作が作り上げた偉大なる宝箱の中身は空っぽだったことを、『最後のジェダイ』は何食わぬ顔でで明かしたのである。

「古いものは滅びるべき」

かつてフォースを「カビのはえた宗教」と笑ったハン・ソロに、『フォースの覚醒』は「全て真実だ。ダーク・サイドも、ジェダイも」と認めさせることで、ジェダイやシス、フォースの神秘性を維持した。『最後のジェダイ』で、再びこの神秘を「カビ臭い」としてゲラゲラ笑いながら燃やした人物は、ヨーダだった。「弟子に超えさせることが、マスターにとって真の重荷」とは、新世代に受け継がなければならないスター・ウォーズそのものを示唆していた。ダース・ベイダーのリフレインであるカイロ・レンのマスクはスノークから「バカげたもの」とこき下ろされた後に粉砕され、そのカイロも「古いものは滅びるべき」と言った。1977年から続くスター・ウォーズの歴史は、『最後のジェダイ』で完全に大転換を迎えた。「スター・ウォーズにはね、」──ファンが嬉々としてこう語ることはもう無いのだろう。「全作かならず、どこかに”嫌な予感がする”というセリフが登場するんだよ。」

戸惑うファンの心情は、シリーズ皆勤賞のC-3POにピタリと重なる。ユーモアと箸休めの象徴だったこの黄金のプロトコル・ドロイドは、「不安な顔」をして登場する『最後のジェダイ』ではまるで邪魔者かのように背景の一部に追いやられた。彼は、共に新キャラクターのポー・ダメロンとホルド提督、その両者の間で「不正だ!」として立ち往生していた。新たなキャラクターに全く馴染むことの出来ない心情の写しを見た。一方で相棒のR2-D2は、もはやカメオ登場に近い扱いとなった。

「フォースはそういうものじゃない」

『最後のジェダイ』では、ルーカスフィルム/ディズニーが提示する新しいスター・ウォーズに付いていく覚悟があるかどうかを観客に尋ねていく。フォースの概念は、「ミディ=クロリアン」とは異なったベクトルで蛇足的説明と新設定が加えられる。

我々は『新たなる希望』でオビ=ワン・ケノービから「フォースはジェダイの力の根源だ。生命体がつくり出すエネルギーの場で、我々を取り囲み、満たしてくれる。銀河全体を結びつけるものだ」と教えられていた。『最後のジェダイ』では、改めてレイの感覚を通じてフォースとは何たるかを観客に示そうとする。「何が見える」「島、生、死と腐敗、新たな生、暖かさ、冷たさ、平和、暴力、バランス、エネルギー、フォース…」レイの体感するフォースは、ナショナル・ジオグラフィックめいた大自然の映像で提示され、かつて仄めかされた詩的な印象をデリカシーなく打ち消す。

そして新しいスター・ウォーズのフォースは、見境ない力を纏って威厳すら捨て去っていく。『フォースの覚醒』でシールドの破壊方法を探るフィンが「フォースを使おう」と口走ると、ハン・ソロは「フォースはそういうものじゃない」と注意した。しかし、『最後のジェダイ』では突然、「フォースはそういうものじゃない、のでは」と疑問を抱かせる描写が続々と、さもドラマチックに登場する。宇宙空間に投げ出されたレイアはクリプトン星人さながらに飛行して生還し、レイとカイロ・レンはフォースを通じてSkype通話を行う。ルークの分身の術は、今後のスター・ウォーズが“もう何でもあり”であることを示唆する。想い出の場所であるべきミレニアム・ファルコン号の内部に勝手に巣を張る珍妙なポーグのように、『最後のジェダイ』は聖域に土足で立ち入って行く。

新キャラクターたちの行方

新たなスター・ウォーズをキャラクター・ドリブンな物語とすることで、可能性を広げたい思惑は理解が出来る。しかし、肝心のキャラクターたちは上滑りする。とりわけ批判の中心となりそうなのはローラ・ダーン演じるホルド提督だ。ただ作戦内容を聞きたかっただけのポー・ダメロンに対し必要以上に嫌味な態度をとることで観客に嫌悪感を与え、しかしながら「レイアの旧友らしいから」という特権で「フォースと共にあらんことを」のセリフばかりか、自らを犠牲にして仲間を救う美点だけを奪って退場していく。その大仕事をアクバー提督に与えてやるべきだったのではないかという意見が単なる懐古主義だとしても、わずかな時間でホルド提督を見直し、彼女の犠牲を惜しむのはあまりにも困難ではないだろうか。

『帝国の逆襲』(1980)で敵か味方か掴みかねる様子だった助っ人のランド・カルリジアン伯爵はすっかり人気キャラクターとなったが、ベニチオ・デル・トロ演じる吃音症のならず者DJはどうだろうか。”関わるな(Don’t Join)”を通り名の由来とし、大義を持たないDJは「善も悪も表裏一体」とするスター・ウォーズのテーマのひとつ(ジェダイでなくいち民間人の立場で見つめる様子は『ローグ・ワン』的)を彷彿とさせたが、DJはフィンとローズを大きく裏切って消えた。今のところ、DJの魅力は明らかにデル・トロの演技力に由来するものではないか。

溢された聖杯

「これは”#レジスタンス:ザ・ムービー”だ」Colliderは『最後のジェダイ』をこう例える。「勝ち目のない敵に対峙すべく立ち上がるという映画であり、ローズが言うように愛する者のための戦いなのだ。」Colliderが指摘するように、『最後のジェダイ』はスター・ウォーズにおけるスカイウォーカー物語を終焉させた。「ヒーローに血筋は関係なく、どんな人間にも偉大な能力が備わっているということを強調する映画でもあるのだ。」

この新テーマは、映画のラスト・シーンにも如実だ。悠かな空や銀河を見つめるという構図は蘇ったものの、ラスト・シーンの作法は『フォースの覚醒』で覆され、「続編で大きな展開を迎える」ことを予感させる幕引きとなった。ただし『最後のジェダイ』は、その見境無さを最後まで発揮し、フォースの能力が備わった者はレイやカイロ・レンだけでなく、銀河中の名も無き者たちも同様であるという夢を与えようとする。杯にあってこその聖杯を、全銀河系に溢してしまったのだ。

スカイウォーカーの伝説は二つの太陽と共に地平線に消え、そうして訪れた長い夜をカント・バイトの少年が見つめる。この少年は、名を“テミリ・ブラグ(Temiri Blagg)”と言う。「あの少年の正体は」「エンディングの意味は」──Comicbook.comCinemaBlendは早速その真相に迫ろうとするが、もはや何でも良いのではないだろうか。フォース感応者は銀河のそこら中に潜在していて、新たな物語がまたどこかで始まるのだろう。もしかしたら、僕やあなたにもフォースの力が備わっているのかもしれない。可能性は無限大だ。ただそれだけの話である。レイが何者でも無かったように、あの少年が誰であろうが、全く意味のないことなのだ。

クレイトの戦い、ルーク・スカイウォーカーはレイアに、ミレニアム・ファルコンのコックピットにあったファジーダイス(金のサイコロの飾り)を渡した。最後にそれはルークの強いフォースが見せた幻だったことがわかり、カイロ・レンの手の上で消える。なぜルークはそのような”まやかし”をレイアに渡したのか。いずれ消え失せるのなら、喪失感を煽るだけなのではないか。そして、レイアはなぜ鉱山の中に捨て去ったのか。

いずれにせよ、スター・ウォーズに抱いていた幻想は、ファジーダイスと共に消えた。結局のところ、ジョージ・ルーカスはずっと正しかったのだ。「これはただの映画だ。観て、ただ楽しむものなんだ。夕日みたいなものさ。そこにどんな意味があるのかなんて心配しなくていい。」

新しい時代が始まった。

Writer

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中谷 直登Naoto Nakatani

THE RIVER創設者。代表。運営から記事執筆・取材まで。数多くのハリウッドスターにインタビューを行なっています。お問い合わせは nakatani@riverch.jp まで。