映像美と目力に惹きこまれる『アンダー・ヘヴン』キルギス版カインとアベルの物語【SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2016上映作品】

『カインはアベルを殺した』
人類最初の殺人を犯し、人類最初の嘘をついた兄カイン。『アンダー・ヘヴン』は、中央アジアの採石場を舞台にしたカインとアベルの物語だ。
『アンダー・ヘヴン』あらすじ
墓石の採掘を生業とするアダムカルには2人の息子がいた。衝動的で猛々しい気象のケリム(兄)と、真面目で現実主義のアマン(弟)だ。ケリムは楽で割のいい稼ぎ口を求めて都会に出ていくが、麻薬売買で逮捕されてしまう。アダムカルは役人を買収し、ケリムを前科者にするのを阻止した。しかし、そのせいで背負ってしまった多額の借金のために、ロシアに奴隷同然で出稼ぎに出ている。
ケリムはいつかまた都会へ戻りたいと思いながら、村に住む娘サルタナットと付き合っていた。サルタナットは両親を事故で亡くし、祖母と2人で暮らしていた。アダムもサルタナットのことを気にしていたが、サルタナットはケリムに夢中だ。村の中でつまはじき者扱いをされているケリムは、やがてサルタナットを置いて都会に戻っていってしまう。しかし、サルタナットはどうやら妊娠してしまったようで……。
ケリム(カイン)につけられた刻印はなにか?
『アンダー・ヘヴン』は、真正面からカインとアベルの物語を再構築している作品だ。荒涼としたキルギスの大地は、旧約聖書の世界とイメージとマッチする。カインとアベルの物語と聞いてまず思い浮かぶ映画は、ジェームズ・ディーン主演の『エデンの東』だろう。神を父親に置き換え、アブラという女性を間に挟み、カインとアベルの物語を再構築した名作だ。
『エデンの東』の父親が、聖書の言葉を引用して叱責し、主人公であるキャルを苦しめるのに対し、『アンダー・ヘヴン』ではケリムを高圧的に押さえつける人物は登場しない。その代わり、両親はケリムの罪をリセットすることで、ケリムの存在を無視してしまう。父親は、ケリムの罪を借金を背負ってまでリセットしたし、母親もケリムのことを直接責めることはせず、淡々と現状に耐えている。
誰一人として、ケリムに正面から向き合わない。『アンダー・ヘヴン』で神のポジションに置かれているのは、父親ではなくむしろ母親なのだが、小石を集めて”家を建てる”と気が遠くなるような作業をしているアマンのことを褒め称える一方で、父親と話がしたいだろうと、携帯の電波が通じる部分にお手製の電話ボックスを作ってあげたケリムのことは相手にしない。この描写は、カナンの貢物を無視して、アベルが支えた生贄だけを喜んだ神の仕打ちとピッタリ重なる。母親にとっては、地道な暮らしこそが重要なのだが、家族のためにと思って夢を追いかけているケリムには、母の思いは理解できない。しかし、この時点ではケリムはアマンに殺意を抱いたりはしない。逆に、自由に生きてサルタナットの愛情を得ているケリムに対し、アマンこそ嫉妬しているように見える。
都会から戻り、アマンがサルタナットの体裁を守るために彼女との結婚を決めたこと、そして父親の死後、ケリムのせいで背負った借金を何も言わずにアマンが引き継いだことを知り、ケリムは初めてアマンに対して殺意を抱く。『エデンの東』のキャルとは違い、最後まで父の愛を確認できなかったケリムは、父と全く同じ方法で自分のことを無視するアマンのことが許せなかった。
そこからの顛末は実際に映画を観て確認していただきたいのだが、ケリムはようやく母の愛を確認することができる。そして、今まで自分がされてきたように、家族の罪を引き継ごうとする。しかし、それは叶わない。ケリム以外の家族に社会的に償うべき罪などないし、ケリムが本当に克服せねばならないものはそこにはないからだ。ケリムは夢の中で近所に住む盲目の男から預言を受け、自分がすべきことを知る。無心に石像を彫りあげたケリムは、いつしか村の中で盲目の男のような存在になっていた。”誰にもカインを殺させないように”と神がカインに刻印したように、ケリムはついにケリム自身の罪を受け止め、石像という刻印を自らつくりあげたのだった。
監督独自の視点:サルタナット

父の墓にすがり「愛されたかった」と吐露したり、アマンの行方を訊ねる盲目の男に「俺は弟の番人ではない」と言ったりと、カインとアベルの物語を忠実になぞっている『アンダー・ヘヴン』だが、監督独自の視点というものももちろんたくさん存在している。その最たるものが、兄弟が愛する女性サルタナットだ。
『エデンの東』のアブラはキャルと心を通わせ、最終的にキャルの魂が救われるのを見届けるが、サルタナットはまったく違う生き方を選ぶ。ケリムに恋をし、身を捧げて捨てられたサルタナットは妊娠する。思い悩んだ挙句に自殺を図るが、アマンに助けられる。それまではアマンのことを疎ましく思っていたサルタナットだったが、”男に捨てられ妊娠して自殺未遂”という醜聞をリセットしてくれるアマンとの結婚を決意する。
しかし、村に戻ったケリムに贈られたハイヒールを履いたことで、サルタナットは変わる。彼女はケリムへの依存的な愛情を放棄し、アマンによって罪をリセットされることも拒否し、自身の罪を受け入れて街へと消える。サルタナットはもうひとりのケリムなのだ。
サルタナットの唯一の肉親である祖母も、彼女と正面から向き合わない。妊娠が発覚して不安に駆られるサルタナットと祖母が会話するシーン。三面鏡によって映し出される2人は、寄り添っているはずなのに反対の方向を向いている。孫に「道徳的な娘に育ってくれて良かった」と語りかける祖母の目には、サルタナットの本当の姿は映っていない。それは、ケリムの家族の目に、本当のケリムの姿が映らなかったのと同じだ。
『エデンの東』でのアブラもキャルと共鳴する存在だったが、同時にキャルに寄り添う母性でもあった。サルタナットはより厳しいヒロインだ。サルタナットはケリムと共鳴する存在であるが、それゆえにケリムを打ち捨てる。彼女もまた、ケリムのようにたったひとりで罪と向き合う必要があったのだ。サルタナットはヒロインである以上に、ひとりの独立した人間として扱われている。
ケリム役アンワル・オスモナリエフの存在感と目力
『アンダー・ヘヴン』では、ケリム役のアンワル・オスモナリエフが強烈な存在感を放っている。細身の身体にギラギラした大きな目、つねに焦燥感に駆られているようでいながら、ときに少年らしい幼さも漂わせる。かといってジェームズ・ディーンほど繊細でもなく、生き抜くパワーのようなものも秘めている。私は、山田孝之に少し似ていると感じたのだが、目の動きだけで心の状態を伝える彼の目力は、この作品の中で非常に大きな役割を担っているといえるだろう。
サルタナット役のムナラ・ドオロンベコワも印象的だ。おとなしそうな外見とは裏腹に、三面鏡に映る自分を眺めるときの欲望を秘めた眼差しや、ふとした瞬間に見せる隠しようのない強い意志は、鋭利な刃物が光るようにギクリとさせる。キルギスの荒れた大地、心が動いたときに現れる煙、広い空……それらの重くゆったりとした映像の中で、ケリムとサルタナットの目だけが、ときおりギラギラと反射して、観る者を不安にさせるのだ。
明確なテーマと緻密な構成により、言葉よりも多くを語る作品
『アンダー・ヘヴン』は言葉の少ない映画だ。先述した”あらすじ”の内容も、分かりやすく説明されているわけではない。少ないセリフからの情報や、役者の細かい表情の動きから、過去に起きた出来事/いま起こっている出来事を汲み取る必要がある。『カインとアベル』という題材が明確なことと、要所要所に組み込まれた映像的メタファー、役者たちの見事な演技などにより、多くのことを”読み取らせる”作品になっている。そしてなによりも、中央アジアの大地そのものが、これほど雄弁な語り部となることを証明してみせた作品とも言えるだろう。広大で乾いた大地と暗く光る空は、キルギスのカインとアベルに起きた悲劇を、ただ静かに見つめている。
『アンダー・ヘヴン』 (C)Film Studio Kyrgyzfilm