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映画ファンが苦手な質問「一番好きな映画教えて」、どう答えるのが正解なのか

クリスマスに忘年会、2018の年末もたくさん飲み会に足を運んだ。いろんな人と話をした。そんな毎日で、ふと浮かんだ疑問がある。

みなさん、「一番好きな映画は何?」と聞かれたら、なんて答えていますか?

実は、映画関係者やコアな映画ファン同士の集まりだと、この質問をする人は案外少ない。みんな「最近面白い映画見た?」とか「今年のベストワンは?」といった質問はしてくる。しかし、「あなたが生涯見た中でもっとも愛している一本を教えてください」とは聞いてこない。そう、映画好きほど「一番好きな映画」の答えにくさは痛感しているのだ。

全然共感できないという、サノス並のメンタル強者はどうぞ嘲笑ってほしい。そして、筆者と思いを共にする迷える子羊たちに、この記事で「一人じゃなかった」と伝えられれば幸いである。そんなわけで、なんともウジウジした記事を書かせていただきたい。

どうして「一番好きな映画」を答えにくいのか?

答えにくい理由その1。「一番好きな映画」を決められないから。毎日のように映画館やソフト、配信で映画を見ている人は、通算の観賞本数が何千、何万となってしまっている。常にオールタイムベストを考えながら映画を見ている人もいるだろうが、大抵は「一番好きな映画」を聞かれてから何万本もの鑑賞体験を遡らなくてはいけない。それはとても、飲み屋の気軽な会話中にできる作業ではないのである。また、大好きな映画がありすぎて1本に絞れないケースも多いだろう。

理由その2。「一番好きな映画」を相手が知らないだろうから。映画ファンともなれば、一般的にはなじみの薄い映画もたくさん見ている。古い映画を見る機会も多い。しかし、前述したように、「一番好きな映画」を聞いてくる相手は、高確率でライトな映画ファンか、それほど映画が好きではない人である。彼らが知らないタイトルを挙げてしまうと、途端に会話は滞る。こちらにはマニアックな話をしているつもりなど毛頭ない。映画史に名を刻む傑作群を「マニアック」などと形容するのは背徳的行為だ。それでも、世間はそんな理屈に付き合ってくれない。ジョン・カサヴェテスだろうとロバート・クレイマーだろうと、2019年を生きる日本人の8割以上が知らない映画は、マニアックなのだ。

もちろん、淀川長治レベルで映画を見ている人が、「一番好きな映画」を聞いてくる可能性がないとはいわない。しかし、そういうときは往々にして「どれ、あなたと映画についてじっくり話し合いましょうかな」といった厳かなオーラを漂わせているものだ。そして、こちらも「胸を貸していただきます」と、さながら剣豪同士の居合い対決みたいな言葉のやりとりが始まるのである。ただ、我々を困らせているのはこういう類のノリではない。飲み屋のお姉ちゃんがとりあえず会話をつなぐために「へえ、映画とか好きなんだ。何が一番好き?」と聞いてくるようなテンションが天敵なのだ。

飲み会で、合コンで、職場で…浮いてしまう恐怖

大前提として、筆者は飲み屋でモテたい。若い女の子にチヤホヤされたい。しかし、2019年1月時点で筆者の「一番好きな映画候補」は以下の通りである。『死刑執行人もまた死す』(1943)『ビッグ・コンボ』(1955)『脱出』(1972)『突破口!』(1973)『ミツバチのささやき』(1973)『カリフォルニア・ドールズ』(1981)『ラヴ・ストリームス』(1983)『ラルジャン』(1983)…。(あと100本くらい続く)おわかりだろうか?これらの映画がきっかけに、飲み屋にいる若くてオシャレで明るい女の子とどんな会話が生まれるというのだろう?あるいは、合コンや婚活パーティーなどでも同じことがいえるはずだ。筆者にとっては、いずれもスクリーンで見た、思い入れたっぷりの映画ばかりなのだが。

さらにヤバいのが会社の飲み会である。職場の上下関係が居酒屋にスライドしただけの空間で、誰も知らない映画のタイトルを挙げようものなら「こいつ、変な奴」のレッテルを貼られかねない。良いか悪いかはさておき、日本企業では協調性こそ美徳なのだから。サラリーマン時代、万に一つの可能性を期待して、「私、フリッツ・ラングが好きなんです」などとカマし、痛い目を見た記憶は枚挙に暇がない。そういうとき、相手の怪訝な表情を確認してから「そんなことより、課長は好きな女優さんなどいらっしゃいますか?長澤まさみなんて、奥さんそっくりじゃないですか」と慌てて話題を変えたときの気まずさよ。敗北感よ。

質問に答えない

理由1、2を踏まえたうえで、筆者は質問に答えなくなった時期もあった。数々の失敗体験を経て、筆者は「もう傷つきたくない。わずらわしい思いもしたくない」との結論に達したのだ。エヴァに乗りたくないシンジ君状態である。とはいえ、相手を無視するのはあまりにも失礼なので、飲み屋では「うーん、それじゃあ、俺の一番好きなジブリ作品を当ててみてよ。もしも当たったらボトル入れるね」などと、質問自体をすりかえていた。ちなみに正解は『海がきこえる』。ボトルを入れたことはまだない。

おかしな振る舞いだとは自覚している。でも、聞いてほしい。こうすると、「今の気分なら『アギーレ/神の怒り』(1972)!」とか答えるより、会話はつながったんですよ。応用編として「う~ん、それじゃあ、俺の一番好きなディズニーのキャラを当ててみてよ。もしも当たったらボトル入れるね」というのもあった。ちなみに、正解はガストン。ボトルを入れたことはまだない。ただ、そんなときも頭の中では、愛して止まない映画たちのタイトルが渦巻いていた。思いつくだけで口にはできないもどかしさといったら!

偽りの「対外用タイトル」を答えるメリット・デメリット

恥ずかしながら、一番好きな映画を偽っていたこともあった。本当に一番好きな映画ではなくても、普通に面白いと感じるタイトルの中から「対外用にウケがいい作品」を選んでしまうやり方だ。たとえば、『フル・モンティ』(1997)などは映画ファン以外の知名度がそれほど高くないものの、「知らない?アカデミー賞とかでも候補になって…」「オッサンがストリップする話だよ」などと、会話をふくらませやすい。内容も人を選ばない。すなわち、飲み屋のお姉ちゃんとLINEを交換するときのネタに使いやすいのだ。「今度DVD貸してあげるよ。感想はLINEで教えて。あれ?まだ交換してなかったっけ?」言うまでもなく、感想が送られてきたことはない。

この「対外用タイトル」によって、一番好きな映画を答えるストレスが軽減されていた時代はあった。しかし、筆者は重大な欠点を見落としていた。相手と映画の話をするのがその場限りなら、「対外用タイトル」には絶大な効果がある。ただし、相手と仲良くなって何回も会うようになり、心から映画が好きだとバレてしまうと、自分を偽れなくなっていくのだ。

ネットをリサーチすると、「コアな趣味は隠したほうが一般人と仲良くなれる」といった記事が大量に出てくる。それはそうかもしれない。だが、こうした記事も根本的な解決は示せていないだろう。恋人にせよ友人にせよ、仲良くなるまでより、仲良くなった後の付き合いの方が長いのである。本当に相手をリスペクトし、いろいろ話せる関係になりたいと願っているなら「対外用タイトル」はまるで無意味だ。それでも、相手と仲良くなりたいからこそ、「一番好きな映画」で引かれたくないのも本音である。ここまでくると、筆者がめんどくさい人間というだけなのだが…。

映画ファンは「好き」のウェイトが重すぎる?

「一番好きな映画」をガチで答える。どうして、そんな普通のことが普通にできないのだろう。こうした筆者の感覚に一番近い状況は、「みんなで行ったカラオケで洋楽を歌う感じ」である。本人はたまらなくその曲が好きで歌い慣れているにもかかわらず、周囲から「何こいつ奇をてらってるの?」という目で見られるあの時間。むしろ、女の子には「いろんな音楽知っててすごいですねえ」くらい言われても良さそうなのに、「文化系の30代は大人しく星野源かスピッツを歌っとけや」みたいな無言の圧力が押し寄せてくる。(被害妄想)

ここまで書いたような内容は、有名映画が好きな人には無関係、でもないはずだ。分かりやすい例でいうと、『スター・ウォーズ』シリーズについて、ファンとそれ以外の人が口にする「好き」ではまったく意味合いが異なる。呂布カルマではないが、「好き」のウェイトに差がありすぎるのだ。そして、この差を理解されないまま、「僕も『スター・ウォーズ』好きですよ。昔のは見てないですけど」と安易に返されてしまう無念さは、映画ファンなら想像に難くないだろう。そんな経験を積み重ねるうち、映画ファン(というより筆者)の心は折れていく。もしかすると、我々映画ファンもまた、ラーメンファンに「一番好きなラーメン屋さんは?」と聞いたり、プロレスファンに「歴代最強のレスラーって誰?」と聞いたりして、同じような辛い思いをさせているのかもしれない。すみませんでした。堪忍してください。

結局、筆者は今のところ「絶対知らないと思うけど。でもね、めちゃくちゃ面白い映画でね…」とダラダラ前置きを述べてから、タイトルを挙げるという方向に舵を切っている。みなさん、本気でどうしているか教えてほしい。「一番好きな映画」って聞かれたら、なんて答えていますか?そもそも、本音で答えていますか?

#一番好きな映画教えて(Twitterのみんなの声)

Writer

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石塚 就一就一 石塚

京都在住、農業兼映画ライター。他、映画芸術誌、SPOTTED701誌などで執筆経験アリ。京都で映画のイベントに関わりつつ、執筆業と京野菜作りに勤しんでいます。