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プリンセス映画『ワンダーウーマン』が「ツッコミは野暮」と思わせる理由

ワンダーウーマン
©Warner Bros. 写真:ゼータ イメージ

世界興行収入が800億円を突破した大ヒット作『ワンダーウーマン』は、終始圧倒的な強さと存在感を放ち続ける女性主人公によって、男女の平等性や人間愛の大切さを強く訴えかける作品として世界的な評判を勝ち取っている。しかし、ひとたび設定やプロットに目を向けると、説明されぬままの謎が非常に多い。それでも観客の熱烈な支持を得ているのには、本作がおとぎ話としての存在感を放っているからではないか、というのが本記事の主張だ。

注意

この記事には、『ワンダーウーマン』のネタバレが含まれています。

『ワンダーウーマン』の謎

たとえば、ワンダーウーマンが扱う武器や防具はどんな素材で出来ていて、なぜ防弾でいられるのか。ダイアナは防弾であること知っていたのか。怪我をしてもすぐに治癒していたが、痛みを感じるのか。であれば、腕や脚を晒した露出的なアーマーは実用性に欠けるのではないか。締め付けた相手に真実を告白させる投げ縄は、なぜそのような効力を持っていたのか。こうした背後設定は、映画内では全く触れられない。

ダイアナらアマゾン族が暮らすセミッシラについても、結局どこに存在していたのか釈然としない。地球上のどこかに存在してたのか、それとも別次元だったのか。スティーブ・トレバーは時空の裂け目を越えて現れたが、そのことにあまり驚いていないばかりか、発光する奇妙な湯も疑わず喜んで浸かっていた。スティーブを追うドイツ軍も時空の裂け目をすり抜けるが、天候や時間、地理状況が明らかに切り替わったにも関わらずその不思議を口にした者は1人もいない。むしろスティーブを見つけるとその追撃をますます強め、ビーチに上陸するや否や謎の女性戦士族を露にも疑わず戦闘に挑んだ。

「ここはどこなんだ?」というスティーブ・トレバーの問いにも、ダイアナは有効な答えを示さなかった。また、ダイアナが島を経つ際に、ヒッポリタに「もう戻ってこれない」と警告されるが、なぜなのか。人間の世界とセミッシラの交通は一方通行的なものであり、スティーブらがその裂け目を越えられたのは、いくつかの条件が折り重なった奇跡的なものだったのか。

数々の穴も目立つ本作だが、世間の感想を観察するに、このような設定部分を指摘する声は少ない。むしろツッコミは野暮なようにも感じられる。それは、今作が「おとぎ話」として上手く成立しているからではないか。

DCEU版プリンセス物語

そもそも『ワンダーウーマン』のあらすじは、典型的なプリンセス物語だ。自らの地位を退屈に思う好奇心旺盛なお姫様が、野性的な男性と出会い、惹かれ、二人で王国を後にして冒険に出掛ける。アラジンとジャスミンを思わせるが、魔法のじゅうたんのメカニズムや、ジャファーのペットのイアーゴが人間の言葉を話せる理由を不思議に思うことはないはずだ。すべては魔法であり、おとぎ話の出来事だからである。だからチャーリーやサミーアは、彼女の戦いっぷりを見ただけでセミッシラやアレスの存在をすんなり受け入れたのだ。

『ワンダーウーマン』が第一次世界大戦という史実舞台をベースにしておきながら、設定の細部を忘れさせるほどに力強い「おとぎ話」として成立しているのは、導入部分の「読み聞かせ」シーンが大きく役立っている。ここで、この映画は天界の神々によって創造された世界で語られるおとぎ話であることが説明される。ゼウスやアレスといったギリシャ神話の神々が、西洋絵画の姿のまま躍動する映像を経て、観客は『ワンダーウーマン』とは神話の世界と地続きにあるのだと理解する。

これは、ライバルのマーベル映画が重視する方向性と大きく異なる。たとえばマーベルでは、キャラクターの武器や能力は作品世界なりの科学に基いている。キャプテン・アメリカの盾やブラックパンサーのスーツはヴィブラニウムで、ウルヴァリンの爪はアダマンチウムで出来ているという空想科学があるし、キャプテンに至っては映画内で投げる盾の軌道が「物理法則を無視している」とスパイダーマンに指摘されたほどである。

DCEUではスーパーマンを始めとする「神や宇宙人だからオーケー」がまかり通ってしまうキャラクターが多く存在するが、だからといって本当にやりたい放題に描いているわけではない。たとえば『バットマンvsスーパーマン』では、あくまで人間であるバットマンとスーパーマンとの戦いを互角に見せるために、緻密な設定が練られていた。二大ヒーローの対決シーンで、バットマンはまず50万ヘルツの音声発生機でスーパーマンの動きを封じるが、この50万という数値は、人間が聴き取れる20~2万ヘルツの周波数に対し、スーパーマンの聴き取れる周波数は25倍であるというデータに基づくもの。その後、バットマンの機関銃がスーパーマンに集中砲火を浴びせる。徹甲弾は厚さ6センチの鋼鉄をも貫通できるというが、スーパーマーンにとっては時速95キロの野球ボールが当たる程度の感覚であると換算され、ヘンリー・カヴィルはそれに耐える様子を演じている。反撃に打って出るスーパーマンは華氏10,000度にも達するヒート・ビジョンを放った後、スーパーマンを掴み上げ、ビルを貫通して投げ叩きつけられる。この時のバットマンの放物線は、まず時速160キロで突き上げられた後、12メートルの高さから時速80キロの速度で投げつけられた際の物理法則に従っている。(これらは『アルティメット・エディション』特典映像で解説されている。)

おとぎ話としての『ワンダーウーマン』

今回の『ワンダーウーマン』の戦闘シーンでは、このような緻密な数値設計は感じられない。たとえば、投げ縄がまるで身体の一部のように自在に動いていたところに、おそらくロジックはない。このことを示唆するように、パティ・ジェンキンス監督は物語中盤ノー・マンズ・ランドのシーンを当初カットしようとしていたことについて、以下のように語っている

「スーパーヒーロー映画では、ヒーローは他の誰かと戦ったりヴィランと戦ったりするものでしょう。だから私がノーマンズランドのシーンの意義を考えはじめたとき、とても混乱した人たちが何人かいて。たとえば“えっと、彼女は何が目的なの?”とか“彼女はどれだけの銃弾を相手にできるの?”とかね。
だから私は、“それは問題じゃない、そういうシーンじゃないんです。これは彼女がワンダーウーマンになるシーンだから”って言い続けていました。」

つまり、この作品にとっての本質は、どこまでもワンダーウーマンというキャラクターの存在なのだ。武器やセミッシラの設定などについても、それが何であるのかという疑問は、監督が言うように「それは問題じゃない」のである。しかし本作は、他の「こまけぇことは良いんだよ」的なハチャメチャアクション映画のような印象は与えていない。ガル・ガドットの神々しいまでの凛々しさがそれを許していないのだ。女性のアクションをひたすらカッコよく魅せることに徹したこれ見よがしのスローアクションは、ガルの眉を上下させての表情作りも相まって歌舞伎の見栄のような芸術性をも感じさせる。

ファンタジー性で押し切る『ワンダーウーマン』は、リアリズム化の一方を辿るスーパーヒーロー映画に「原点回帰」とも言えるエンターテインメント性をもたらした。「最近のスーパーヒーロー映画は、身近で共感できるヒーローが特徴だ」といった風潮に対して、今作は再び「圧倒的すぎて、ただただ憧れるしかないヒーロー」を蘇らせた。Tシャツを着てハンバーガーを食べる一般人出自のヒーローではなく、神で王女で不死身という、ひたすら手の届かない天上人は、やもすれば「共感できない」と批判を受けていたかもしれない。それでも世界的な支持を受けているのは、人々が再び圧倒的なリーダーを求めて、夢を見たがっているからなのかもしれない。

こうしたおとぎ話的な方向性は最後まで一貫している。クライマックスのアレスとの決闘では、経験未熟のワンダーウーマンが劣勢に陥るが、スティーブとの愛に気付き覚醒して一気に逆転する。それが美しい。身も蓋もないとは思わない。王子様のキスで眠れる森の美女が目覚めるのと同じ理屈だからである。

Writer

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中谷 直登Naoto Nakatani

THE RIVER創設者。代表。運営から記事執筆・取材まで。数多くのハリウッドスターにインタビューを行なっています。お問い合わせは nakatani@riverch.jp まで。

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