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【解説】多様化社会における”可能性”とは ─ 『ワンダーストラック』トッド・ヘインズ監督の永遠のテーマを探る

ワンダーストラック
PHOTO : Mary Cybulski

同性愛(者)や人種差別といった性的、社会的マイノリティを追求し、現代に生きる私たちの重要な課題である「多様性」や「共生」といった深いテーマに傾倒してきた監督トッド・ヘインズ。『エデンより彼方に』(2002)、『キャロル』(2015)といった監督の代表作には、ジェンダー・アイデンティティの葛藤を経て、自分たちの居場所を見つけ出す人々が絶えず投影されてきた。

こうした耽美的な作品を多く手がけてきた監督が今回挑戦するのは、アカデミー賞11部門ノミネート、5部門受賞の傑作『ヒューゴの不思議な発明』(2011)の原作者、ブライアン・セルズニックの同名ベストセラー小説を映画化した『ワンダーストラック』だ。ここでは、ヘインズ監督が作品に込めた永遠のテーマにも触れつつ、本作『ワンダーストラック』の本質について深く熟考していきたい。

注意

この記事には、『ワンダーストラック』の内容が含まれています。

ワンダーストラック
PHOTO : Mary Cybulski

ふたつの時代のニューヨーク

原作者のブライアン・セルズニックは、2011年に発表した自身のベストセラー小説『Wonderstruck(原題)』について、「映画化は困難を極める」と考えていたようだ。なぜかというと本書は、1927年と1977年という二つの時代で構成されているからで、ひとつの時代は繊細な鉛筆画によるイラストだけで表現されており、そこに言葉は添えられていない。もうひとつの時代は、単に散文だけで書きつづられており、物語を補完する挿画などは含まれていない。とてもユニークで、かつ特殊な形式の一冊だ。

鉛筆画によるパートは1927年を描いたもので、主人公は聴覚障害という社会的マイノリティに生きる少女ローズを軸として展開する。厳格な父のもとで育てられた彼女は、生まれながらにして聾(ろう)を患っており、日々の生活に寂しさを感じていた。彼女は、心の支えだった憧れの女優リリアンを探し求めて、ひとりニューヨークへ行くことを決意するのだ。一方、絵のない散文だけで語られているのは1977年で、こちらは最近母を亡くした少年ベンが主役となる。偶然見つけた父の痕跡をたどり、彼もまた、ニューヨークへ足を運ぶこととなる。

1977年はいまからおよそ40年前、1927年ともなれば今から100年も前にさかのぼる。1927年といえば映画史における大転換期であり、トーキーを採用した世界初の長編映画『ジャズ・シンガー』(1927)が公開されたのも、この年のことだ(トーキーについては詳しく後述する)。芸術や文化がさらに発展し、アメリカが急成長を遂げた輝かしい年代だ。

一方、1977年といえば、ニューヨークで前代未聞の大停電が発生した年だ。7月13日、午後9時34分に起きたその停電は、ニューヨーク市の5分の4とコネティカット州の一部にまで被害をもたらし、また、窃盗や強盗などの犯罪を誘発するなどで、およそ数千人が逮捕されたという。この大停電の夜、二つの異なる時代を生きる少年と少女は、不思議な運命によって意外なつながりを知ることとなる。

『ワンダーストラック』は、二つの時代のニューヨーク、その異なる街並みをそれぞれ忠実に再現し、各当時の流行ファッションや音楽、トーキー映画の台頭などに見られる大衆文化、芸術の変遷を巧く映し出している。

特にアメリカ自然史博物館を見れば、その二つの時代の変化はより顕著に表されている。1927年と1977年、どちらのニューヨークにも登場するのがアメリカ自然史博物館で、50年の時を隔てるベンとローズの物語は、この博物館を因縁として次第につながりを見せていく。博物館の変化は、50年という時代の流れをより明確に示しているのだ。

まったく異なる二つの時代、二つのニューヨーク、二人の主人公を描く本作は、ヘインズ監督にとってはまさに、新境地と呼ぶにふさわしい作品だろう。ヘインズ監督の芸術的才能には尊敬すら覚えてしまう。

「耳が聞こえない」というマイノリティ

本作『ワンダーストラック』では、原作で描かれた鉛筆画による物語を、美的で洗練されたモノクローム映像として落とし込んでいる。当時のサイレント映画を彷彿させる音のない白黒映像による1927年のパートは、原作にある鉛筆のデッサン画を巧みに、かつ幻想的に再現する。

ワンダーストラック
PHOTO : Mary Cybulski

少女ローズ(ミリセント・シモンズ)を主役とする1927年の当パートこそ、まさに聾者(ろうしゃ)が日々体験している“音のない世界”を表していて、それゆえ、無声映画のごとく人物等のセリフは一切入っていないのだ。いや、実際にスクリーンの役者たちは喋っているように見えるが、その声はただ我々には聞こえないだけであって、観客はローズとおなじ聾者が生きる日常を疑似体験することとなる。

とはいえ、1927年のパートには音がまるでないという訳でなく、映像には無声映画よろしく、効果音的伴奏が付け加えられている。登場人物のしぐさや情緒に合わせて打楽器や弦楽器などで音楽、もとい、感傷的な「音」を奏でているのだ。そう、なにより1927年のシークエンスでは「音」という普遍的要素がもっとも重要な位置を占めている。

1977年のパートは少年ベン(オークス・フェグリー)を主役とし、映像はたちまち“サウンドを加えたカラー描写”に切り替わる。現代映画の体裁をとる1977年は、交通事故で母を亡くした12歳の少年ベンの物語だ。

父とは一度も会ったことがなく、父の名前すら知らされていないベンは、ある日の夜、母の遺品の中から「ワンダーストラック」という一冊の古本を見つける。中にはキンケイド書店のしおりが挟まれており、そのしおりには「愛を込めて、ダニー」とメッセージが記されていた。ダニーこそが父であると直感したベンは、すぐに書店に電話をかけるも、その矢先に雷が落ち、電話線をつたった電流がベンを襲う。病院で目覚めたベンは、事故により耳が聞こえなくなったことを知らされる。

それぞれの時代に生きるローズとベンは、期せずして(はたまた運命か)、聾という同じアイデンティティを持って生きることとなるのだが、彼(彼女)にはそうしたハンデを感じさせない強いパワーが備わっており、本作は、そういった人の持つ「可能性」の素晴らしさを描写している。ヘインズ作品に登場するこうしたマイノリティの人々(『エデンより彼方に』のレイモンドなど)は、差別が公然と行われる中でも芯の通った生き方、在り方を示してきた。

話を1927年に戻そう。20年代のアメリカといえば第一次世界大戦が終結し、アメリカは戦勝国としての地位が向上、さらに文化産業の発展や新しいテクノロジーの登場によって、経済は凄まじい勢いで成長を遂げた。俗にいう「狂騒の20年代(Roaring Twenties)」とは今から100年ほど前のこれら文化を総括した呼び名である。

作中、ローズは憧れの女優リリアンが出演するサイレント映画を鑑賞する。ローズのような聾者には、音のないサイレント映画こそ、健常者との隔たりをなくす唯一の拠りどころであったはずだ。しかし、である。テクノロジーの進歩は時に恐ろしいもので、トーキーの台頭はローズにとって娯楽が悲劇になった瞬間だった。

トーキーとは音声と映像が同期した映画のことで、今ではまるで当たり前なのだが、俳優の語るセリフが入っている映画のことをいう。サイレント映画を「無声映画」というのならば、トーキーはいわば「発声映画」だ。

作中では、トーキーの登場を予告する横断幕が登場し、耳の聞こえないローズは無声映画の終焉に悲しげな顔を浮かべる。テクノロジーの繁栄によってハンデを持つ人々が孤立していく時代。バリアフリーといった概念こそまだなく、そうしたマイノリティは一般社会に馴染めず、受け入れてはもらえない。まさにこれこそ、トッド・ヘインズ監督が長いキャリアの中で絶えず題材として描き続けてきた、永遠のテーマそのものではないか。

ワンダーストラック
PHOTO : Mary Cybulski

トッド・ヘインズ監督の“らしさ”とは

作中、少年ベンの母親エレイン(ミシェル・ウィリアムズ)はレコードに耳を傾ける。聴いているのは、2016年に逝去した伝説のアーティスト、デヴィッド・ボウイのヒット・ナンバー「Space Oddity」だ。スタンリー・キューブリック監督の映画『2001年宇宙の旅』(1968)からインスパイアされて書いたという歌詞には、宇宙空間を漂うトム少佐と、地上管制官との会話がバラードでつづられている。なぜ、このボウイの代表曲が使用されたのだろう。

ヘインズ監督は、かつてボウイの伝記映画『ベルベット・ゴールドマイン』(1998)を手がけている。しかしボウイは、同作への楽曲提供を認めなかったというのだ。ゆえに同作は、デヴィッド・ボウイにそっくりなブライアン・スレイドという架空のロック歌手を描くものに路線変更せざるを得なかったという。

あれから20年。ヘインズ監督の悲願だったボウイの楽曲を使うという夢は、長い時間をかけてようやく成し遂げられたのだ。歌詞の最後には、地上管制官との通信も途切れ、無重力空間をただ一人浮遊するトム少佐の孤独感が書かれているが、まさにこの感情は、障害というハンデを抱えながら、訪れたことのないニューヨークを冒険する映画の少年少女にも通ずるのではないだろうか。

ニューヨークに降り立ったローズは兄ウォルター(コリー・マイケル・スミス)と、ベンは地元の少年ジェイミー(ジェデン・マイケル)と出会うことで、彼(彼女)はそうした孤独感から次第に解放されていくのだが、そこにもヘインズ監督が、マイノリティとして生きる人間たちに希望を与えているような気がしてならない。

エレインの部屋に貼ってある、オスカー・ワイルドの引用。ここにもヘインズ監督の思い入れが色濃く表れている。

“オレ達は皆、ドブの中にいる。でもそこから星を眺めるやつだっている。”
“We are all in the gutter, but some of us are looking at the stars.”

19世紀イギリスを代表する天才的作家オスカー・ワイルド。いまでは文豪と呼ばれている彼の著作は世界的にも高く評価されているのだが、19世紀当時、ワイルドはとても世間一般に受け入れられる存在ではなかった。理由は同性愛者という性的マイノリティから来るもので、男色を理由に迫害されたワイルドは、同性愛者のアイコン的存在として扱われることもしばしばだ。

今となっては同性愛(者)は多様性の観点から徐々に認知され始めているが、現代社会における周知はまだ完全なものではない。同性愛者であるワイルドは戒めを受け投獄され、苦しんだ。じつはヘインズ監督自身も、以前からゲイであることを公表しており、同一のマイノリティとして生きたワイルドに、なにか共通項を見出していることは言うまでもない。

同性愛を理由に、世間から見捨てられたワイルドのこの言葉は、障害というハンデを抱える劇中のローズとベン、そして子役ミリセント・シモンズにも大きな可能性を投げかけている。というのも、ローズに扮した子役ミリセント・シモンズは、自らも聴覚障害を抱える本当の聾者であるのだ。シモンズの演技は、聾としての実人生から得た本物の経験であり、ゆえに複雑なローズ像を見事に体現できたのだろう。また、ヘインズ作品のミューズであるジュリアン・ムーアも共演し、映画の物語はさらに説得力を増している。

ワンダーストラック
PHOTO : Mary Cybulski

性的、社会的テーマを掲げ、大人の映画を撮り続けてきたトッド・ヘインズ監督。ブライアン・セルズニックの児童書を実写化し、さらに、自身初となるティーンを主役に迎えた本作『ワンダーストラック』は、ヘインズ作品として見ればまさに「異色作」である。しかし、作品を冷静に紐解いていけば、監督の永遠のテーマであるマイノリティといった部分が見え隠れしているのが分かるはずだ。

Writer

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Hayato Otsuki

1993年5月生まれ、北海道札幌市出身。ライター、編集者。2016年にライター業をスタートし、現在はコラム、映画評などを様々なメディアに寄稿。作り手のメッセージを俯瞰的に読み取ることで、その作品本来の意図を鋭く分析、解説する。執筆媒体は「THE RIVER」「映画board」など。得意分野はアクション、ファンタジー。

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