映像と音楽が観客の脳内をジャックする!『ベイビー・ドライバー』疾走感のワケ

エドガー・ライト監督の最新作『ベイビー・ドライバー』が8月19日に公開され、全国40館という小規模なスタートながら映画ファンの間で話題になっています。これまでも『ショーン・オブ・ザ・デッド』や『スコット・ピルグリム vs 邪悪な元カレ集団』、『ホット・ファズ 俺たちスーパーポリスメン!』など話題のコメディ作品を世に送り出し、映画ファンの熱い支持を受けてきたエドガー・ライト監督。本作も彼の独特のセンスが光る傑作クライムアクションになっています。今回の記事では映像と音楽の融合の話だけでなく、それらの語り口がストーリーと密接に絡み合っていることを、詳しく考察します。

ベイビーの見る世界と音楽のシンクロ
『ベイビー・ドライバー』の主人公は、天才的なドライビングテクニックを買われて強盗の「逃がし屋」として雇われている孤独な青年ベイビー。彼は幼少期に交通事故で両親を亡くし、その際受けた衝撃のせいで耳鳴りの後遺症が残ってしまいました。ですが、音楽をかけると耳鳴りは消え、最高の集中力でパフォーマンスすることができるのです。本作は、そんな彼が愛する女性との生活を手に入れるため、最後と思って引き受けた仕事から大事件に巻き込まれてしまうというストーリーです。
やはり、この映画で特筆すべきは映像と音楽のつながりでしょう。特に冒頭のカーアクションは度肝を抜かれます。ベイビーが執拗に追跡してくるパトカーの軍団を音楽に合わせて華麗に避けていく姿は、ダンスを踊っているようですらありました。ベイビーの世界と音楽がシンクロし、観客の目と耳は映画に支配されます。ベイビーの感情と音楽が同期するように、観客の感情と映画も同期するのです。このシンクロはカーチェイスだけではありません。ベイビーがドクのアジトまでコーヒーを運ぶシーンでは生活音がリズミカルに音楽と重なり、デボラの登場する場面では流れる曲の歌詞が状況の説明になっていました。その場面で展開される映像の雰囲気や登場人物の感情が、背景に流れる音楽によって二重に表現されているのです。
そして何より素晴らしいのが、映像のテンポです。エドガー・ライト監督の特徴の一つにクローズアップショットの多用があります。この文法は主に状況の説明において使われます。たとえば『ホット・ファズ 俺たちスーパーポリスメン』の主人公が朝の支度をする場面では、ズボンのファスナーを下ろし、トイレの水を流し、水が流れ、歯を磨き、鏡の前で名札を直し、準備完了という一連の流れをクイックなクロースアップショットの連続でみせています。ほかにも扉の開け締め、書類に名前を書く、パブでビールを飲む、といったなんでもない状況の説明をこうした演出によってコミカルかつリズミカルに処理しています。これがエドガー・ライト監督の代名詞だったのですが、今回の『ベイビー・ドライバー』によってこの演出法はひとつ上のステージに格上げされていました。特に先述のカーチェイスシーンは白眉です。ベイビーが運転席でミラーを覗き、クラッチに足をかけ、チェンジレバーを切り替え、ハンドルに手をかけ、クルマが発進するという一連の動きを、得意のクイックショットでつないでいます。そこからパトカーを振り切るまでのアクションも、テンポよくカットを刻み、歯切れの良い編集をすることでスタイリッシュかつスピーディに流しています。次にどんな映像が飛び込んでくるかわからないので、非常にスリリングでもありました。これまで「楽しい」「面白い」演出だったクローズアップショットの多用に「カッコいい」が加わったのです。
こうした緊張感ある演出によって、ほかの場面も引き立ちます。たとえば、ベイビーとデボラの日常パートの編集は(相対的に)ゆったりとスローに感じられます。ベイビーにとって彼女と一緒にいる時間が癒しであり、非常に重みをもっていることを、観客は体で感じ取るのです。強盗に加担している時間の落ち着きのなさと、いとおしい日常の地に足ついた落ち着きの対比が、そのまま映像のテンポにも反映されていると、読むことができます。

音楽によって世界を閉ざし、音楽によって世界と接する
ベイビーの見る世界が映像と音楽のシンクロによって表現されていることは、いままで述べてきたとおりです。ここからは、こうした表現とストーリーの関係について考えます。
ベイビーは目の前の光景と音楽を同期させることで世界と接しています。しかし、言い方を変えると、彼は音楽を通してでしか世界と接することができないのです。つねにサングラスとヘッドホンで他者との接触を断る彼は、本当の意味で人と触れ合い、理解することを拒絶しています。だから音楽を流し続けることで自分だけの世界を構築し、半奴隷状態で犯罪に走るしかない現実から目を背けてきました。音楽がないと耳鳴りがするのは、おそらく両親を亡くしたトラウマのせいでしょう。精神的な障害を抱えてしまっているのです。
しかし、ベイビーが音楽を通して唯一”つながる”ことのできる女性がいました。ダイナーで出会ったウェイトレスのデボラです。ベイビーとデボラの二人は音楽の趣味によって通じ合い、iPodでお互いの世界をシェアします。デボラといるときは耳鳴りがしません。音楽によって世界を閉ざしてきたベイビーは、はじめて音楽によって人と通じ合い、愛を知ります。

デボラと結ばれたことでベイビーは否応なく現実を向き合うことになります。しかし、彼はその現実から逃げることしかできません。ちょうど「逃がし屋」として活躍してきたように。犯罪者としての世界と、デボラを愛する男としての世界はぶつかり合い、ドク、バッツ、ダーリンなど多くの人間が死んでいきました。もうここに音楽によって世界とつながる爽快感はありません。逃げ場はないのです。現実が波となってベイビーとデボラに押し寄せ、ひたすら試練を与えます。最終的にダーリンを奪われたバディは復讐の鬼と化し、ベイビーの前に立ちはだかる最大の試練になります。愛を失って正気を失った男と、愛のために暴走する男。あまりに哀れで、人間臭い戦いです。
ベイビーに最後に襲い掛かる現実は、罪の清算でした。悪事を働いてきた以上、それ相応の罰を受けなければならないのです。ラストは現実なのかベイビーの夢なのか、どちらともとれる終わり方ですが、私は、サングラスもヘッドホンも捨てて戦ったベイビーが最後に地に足つけて現実の世界で暮らせるようになったと信じています。
こうして振り返ってみると、音楽による疾走感と現実の重みが反比例していることが分かります。カーチェイスの”逃げ”のスリルも前半はエキサイティングですが、後半では悲壮感が漂っています。音楽によって世界を拒絶してきたベイビーは、音楽によって愛を知り、やがて音楽だけでは世界と接することができないと知ります。ベイビーの音楽との関わり方は、そのまま彼の現実との関わり方に重なっているのです。最後まで、この映画は音楽によって支配されている作品なのではないでしょうか。
以上のように、『ベイビー・ドライバー』は映像と音楽とストーリーが密接に絡み合い、私たち観客の脳内をジャックするすさまじい映画になっています。上映規模が非常に小さい作品ですが、もっとたくさんの人に体感してほしい傑作です。今後口コミが広がって日本全国で見られるようになることを願っています。