『ブレードランナー 2049』は『ブレードランナー』以上に『ブレードランナー』らしい映画?前作より引き継いだ需要と受容のかたちを解き明かす

本国ではヒットしなかった『ブレードランナー 2049』
今更ながら、『ブレードランナー 2049』(2017)がアメリカ本国で「興行的に失敗した」という報道は信憑性に欠けると思う。確かに初週の収入3,250万ドルは期待されたラインを大幅に下回っていただろう。しかし、名作『ブレードランナー』(1982)続編というコンテンツは全世界的な動員が見込める。今後のアメリカ以外の収入を含めれば、かなりの黒字に収まるだろう。そもそも163分もの上映時間の映画が初週から大ヒットを飛ばす可能性は非常に薄い。195分の『タイタニック』(1997)や162分『アバター』(2009)すらも初週の動員は芳しくなかったのだ。
と、これらの感想は日本で『ブレードランナー 2049』が公開される以前に筆者が抱いていた内容である。ただ、実際に公開された本編を鑑賞すると、本国でヒットしなかった原因は上映時間以外にもあるのではないかと思えてきた。勘違いしないでいただきたいのは、別に『ブレードランナー 2049』が酷い出来だったと言いたいわけではない点である。すでに批評家は絶賛モードに突入していることからも分かるように、映像面でも物語でも優れた作品であるのは間違いない。ただ、『ブレードランナー 2049』という映画作品が収まるべき場所が「公開と同時に全世界で大ヒット」ではないのだろうと感じられただけだ。なぜなら人々が『ブレードランナー』2作に求めている盛り上がりのピークは「現在」ではないのだから。
後世で評価が覆った『ブレードランナー』
映画ファンには言うまでもない歴史だが、『ブレードランナー』は公開当時、決して恵まれた評価を受けた作品ではない。むしろ、不遇をかこったというべきだろう。商業的には失敗し、批評家からのリアクションも微妙だった。フィリップ・K・ディックの傑作SF『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』が原作でありながらストーリーは大きく改変されているのも観客を戸惑わせた。何より、SF映画のイメージにあった巨大スケールから物語がかけ離れていたのだ。なんだか地味な格好のデッカード(ハリソン・フォード)がチャラい若者にしか見えないレプリカント(人造人間)を追いかけるだけ。『ブレードランナー』の下敷きにあるのは戦前のフィルム・ノワールだと言われている。街並みの暗い陰影や原作以上にハードボイルドなデッカードの人物造詣などはノワール調そのものだ。だが、「わざわざノワールをSFでやらなくても」と思った人は多かっただろう。
ところが、公開から30年以上経った現在、『ブレードランナー』は不朽の名作として扱われている。EMPIRE誌が2014年に発表した「史上最高の映画301本」では1位にランクイン。2011年にTOTAL FILM誌が行った「史上最高のSF映画」では見事1位に輝いている。『スター・ウォーズ』シリーズや『2001年宇宙の旅』(1968)を抑えての結果だ。いつの間に『ブレードランナー』の評価は覆ったのか?
ただし、これら思惑が『ブレードランナー』制作陣に含まれていたのかは疑問が残る。『ブレードランナー 2049』公開のタイミングで改めて『ブレードランナー』を見返したが、ビジョンの斬新さやオリジナリティーのある固有名詞などを除けば、非常に手堅く撮られた娯楽映画との印象を持った。『ブレードランナー』が素晴らしい作品なのは間違いないが、いくつもの偶然や時流が重なって「歴史的傑作」にまで辿り着いた一作だと思う。そして、『ブレードランナー 2049』はこうした「偶然」を「必然」に変えるためのミッションだったといえる。
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