『ターミネーター』撮影監督が死去、ジェームズ・キャメロン追悼「彼は今でも私の指針」

『ターミネーター』シリーズの撮影監督であるアダム・グリーンバーグ氏が、2025年10月30日に死去した。88歳だった。
グリーンバーグ氏は1937年4月11日、ポーランド生まれ。イスラエルの都市テルアビブで育ち、1960年代からドキュメンタリー映画などに携わり、のちに撮影監督デビューを果たした。1980年代には拠点をハリウッドに移し、『最前線物語』(1980)などを経て『ターミネーター』(1984)で注目された。続編『ターミネーター2』(1991)ではアカデミー賞の撮影賞にもノミネートされている。
訃報を受けて、『ターミネーター』2作品でタッグを組んだジェームズ・キャメロン監督は追悼文を発表。フィルムメイカーとして「多くのことを学んだ」と記し、現在にも至る影響の大きさをつづった。
「アダムからは映画の撮影だけでなく、インディペンデント作品の精神についても非常に多くのことを学びました。彼は、芸術的な表現が予算の制約を受けることを拒んでいました。初めて仕事をした時、アダムはすでに数々の映画を手がけていました。つねに戦い、何事も実現させようという彼の姿勢は、それ以来、いかなる大作映画においても私の指針となっています。
最後に彼に会ったのは数年前、『ターミネーター2』3D版のため、色の調整を快く手助けしてくれた時のことでした。夜のシーンの青が紫すぎるので、もう少しシアンを足すべきだとカラリストと議論していると、アダムはそのシーンを一目見るや私を脇に連れて行き、“ジム、シアンがもう少し必要じゃないか?”と言ったのです。20年以上経ってもなお、彼は色のポイントを覚えていた。これこそが精度です。いまや私は、彼の目で色を見ています。
アダムなくして、私の『ターミネーター』シリーズはなかったでしょう。彼は私に、色と照明がもつ物語の力を教えてくれました。アダムほど夜間の撮影が上手な人はいませんでした。私が誇りに思っている手持ちカメラの操作は、アダムのもとで学んだことです。彼はまさに巨匠でした。彼の影響を受けたフィルムメイカーは世代をまたぎ、なかには彼に撮影してもらえた幸運な人もいました。私たちは彼のそばで直接学ぶことができた。彼の才能と精神が惜しまれてなりません。」
グリーンバーグ氏の代表作には、『ターミネーター』2作品のほか、『ゴースト/ニューヨークの幻』(1990)や『天使にラブ・ソングを…』(1992)『イレイザー』(1996)『ラッシュアワー』(1998)などがある。ハリウッドで手がけた最後の劇映画は『スネーク・フライト』(2006)だった。
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Source: Deadline

























