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『クレイジー・リッチ!』は本当に白人主観なのか ─ 健全な議論が生む「新しい映画の見方」

『クレイジー・リッチ!』
© 2018 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. AND SK GLOBAL ENTERTAINMENT

『クレイジー・リッチ!』(2018)は主要キャストとスタッフがアジア系で占められているハリウッド映画としては『ジョイ・ラック・クラブ』(1993)以来の作品である。ただし、『ジョイ・ラック・クラブ』が移民の歴史をシリアスに描いた映画だったのに対し、『クレイジー・リッチ!』のトーンは底抜けに明るい。いわゆる「ラブコメ」の枠で鑑賞することも可能だろう。

あるいは、『ハングオーバー!』シリーズなど、アメリカ映画で絶大な人気を誇る「ウェディングもの」の新たな傑作だともいえる。本作はアメリカだけでも、興行収入1億5千万ドルを超えるヒットとなった。2億ドルの大台も不可能ではないだろう。理屈抜きに面白い映画なのはもちろんだが、「好況に沸くアジア」というアメリカ人の興味を見事に反映した内容が大ウケしたのだ。

『クレイジー・リッチ!』
© 2018 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. AND SK GLOBAL ENTERTAINMENT

ところが、『クレイジー・リッチ!』はアメリカの多様性を代表する一本と称賛される一方で、批判の声も挙がっている。これだけ話題作なのだから賛否両論が起こるのは当然だ。作品のファンは的外れな批判など無視しておけばいい。しかし、納得できるかどうかはともかくとして、背景について深く考えた方がいい批判も混じっている。

この記事では、『クレイジー・リッチ!』について寄せられた批判の中から論理的なものを取り上げ、アメリカ社会を考える参考にしたい。

国籍や人種の定義を揺さぶるキャスティング

『クレイジー・リッチ!』は2013年に出版されたケヴィン・クワンの小説を原作にしている。映画と同様に、原作もすこぶる評判はいいようだ。海外のレビューサイト、メディアを追ってみても基本的には好意的な評論が掲載されている。

それでも、議論がやや白熱しつつある部分はキャストの国籍だ。本作のヒロイン、レイチェルは中国系だが、生まれも国籍もアメリカである。本人もアメリカ人として生きているので、アジア系アメリカ人のコンスタンス・ウーの起用は観客から問題なく受け入れられた。だが、作品の主な舞台がシンガポールであるにもかかわらず、シンガポール人ではないキャストが大勢起用されていることに批判が集中している。こうしたキャスティングへの批判を抜粋してみよう。瀧口範子氏が東洋経済ONLINEにて、『クレイジー・リッチ!』に関する意見をまとめている。

さらに中国系でない俳優が中国人を演じているのを問題視する声もある。中国人でない俳優の1人は、ニックその人。演じるヘンリー・ゴールディングはマレーシア出身で、イギリス人の父親とマレー人の母を持つ。もう1人は日本人の名前を持つソノヤ・ミズノだ。日本人の父とイギリスとアルゼンチン系の母の間に生まれた日系イギリス人である。

狂気なほど金持ちアジア人に全米が沸くワケ

クレイジー・リッチ!
© 2018 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. AND SK GLOBAL ENTERTAINMENT

たとえば、アメリカ映画では「アメリカの白人俳優がヨーロッパ系の役を演じる」ことが少なくない。『クレイジー・リッチ!』のキャスティングについても、「見た目に問題がないなら俳優の国籍はどうでもいい」という人もいるだろう。しかし、議論の争点は創作面ではなく、倫理面にあるのは明らかだ。社会的マイノリティが、自分たちの仕事を別のグループに奪われてしまうことが問題なのである。とはいえ、ゴールディングやミズノを「アジア系とは認められない」とまで評するのは乱暴な意見だ。彼らにアジア系の血が流れているのは紛れもない事実なのだから。散々グローバル化が叫ばれる世界において、観客は改めて「国籍」や「人種」の定義を考えずにはいられない。

白人・男性主観?寄せられた批判を考える

なお、瀧口範子氏の記事では、『クレイジー・リッチ!』について「白人主観が根底にある」との批判も出ているとの報告もある。確かに、『クレイジー・リッチ!』に登場する富裕層があまりにも白人的に描かれているのは筆者も引っかかってしまう。しかし、この点に関しては「東洋的な伝統と西洋的な繁栄」という作劇上の対比にもなっているために、あながち欠点と決めつけにくい。白人セレブのように振舞うアジア系が象徴する世界もあるのではないか。

むしろ、「男性主観」の方がまだ説得力のある批判だといえる。人種問題を現代的な感覚で描いた内容にもかかわらず、レイチェルのニックに対する想いが陳腐な「白馬の王子」の域を出ていないとする指摘があるのだ。実際に引用してみよう。以下、CJ JohnsonがオーストラリアのABC RADIO、「Nightlife」で語った内容である。ちなみに、放送のアーカイブも、文字に起こした文章もネットで確認可能だ。

『クレイジー・リッチ!』は文化的に意義深い内容だが、いまだ王子様に恋をする女性の映画でもある。http://www.abc.net.au/radio/programs/nightlife/cjs-film-reviews/10204010

レイチェルは聡明で自立した女性として描かれている。だからこそニックもレイチェルを愛しているわけで、「レイチェルの恋愛観」は作品の根幹に関わる部分だ。筆者は2人の関係性にそこまで幻想があるとは思わないが、こういう意見が出てきてもおかしくない程度の描写ではあるだろう。

こうして作品に寄せられた言説を追ってみるだけでも、『クレイジー・リッチ!』はストーリー、演出、キャスティングなど、さまざまな面で旧来の価値観では語りつくせない映画なのだとわかる。観客に世界経済の新たな地平を見せてくれるような、新世代のラブストーリーが『クレイジー・リッチ!』だ。価値観が更新された映画を鑑賞するにあたり、観客もまた思考のアップデートに付き合うのか、それともあえて現在の自分にとどまるのかの二者択一を迫られる。その結果、賛否両論が生まれるのは当然の流れである。

クレイジー・リッチ!
© 2018 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. AND SK GLOBAL ENTERTAINMENT

日本人は独特な見方をするチャンスを与えられている

さて、ここからが本題なのだが、筆者は何も『クレイジー・リッチ!』への批判を並べて「だから、つまらない映画だ」と主張したいわけではない。そして、批判にいちいち反論を述べて「こうした意見は的外れだ」と怒りたいわけでもない。アメリカ本国では、多角的な議論の叩き台として『クレイジー・リッチ!』が機能していると伝えたいだけである。人種描写の部分にせよ、作劇の部分にせよ、1本の映画作品を通して社会全体で建設的な議論が起こること自体、日本人としてはうらやましいと思うのだ。

見逃せないポイントとして、『クレイジー・リッチ!』にまつわる議論には、日本人も無関係ではないテーマが含まれている。そもそも、『クレイジー・リッチ!』の中国、シンガポールのように、アメリカ社会から見た「異様な光景」として日本が描かれていた時代もあったのだから。たとえば、『ガン・ホー』(1986)ではまさに、バブル期の日本が「クレイジー」な国としてレポートされている。『ベスト・キッド2』(1986)や『ブラック・レイン』(1989)など、日本文化を題材にしたアメリカの大作映画が80年代に多数製作されていたのも、日本経済の注目度が国際的に高かったことと無関係ではない。つまり、『クレイジー・リッチ!』に登場する、物質主義にまみれたセレブリティたちは、たかだか30年前までの日本の姿でもある。

日本の観客は『クレイジー・リッチ!』について、かなり独特な鑑賞をするチャンスを与えられている。30年の間に、アジアはアメリカ社会で「好奇」以上の関心を得られたのか。『クレイジー・リッチ!』はひとつの試金石だといえるし、日本人だからこそ答えを出せる部分もある。そう、本作は日本でももっと大きな議論を呼んでいい内容であるはずなのだ。

Writer

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石塚 就一就一 石塚

京都在住、農業兼映画ライター。他、映画芸術誌、SPOTTED701誌などで執筆経験アリ。京都で映画のイベントに関わりつつ、執筆業と京野菜作りに勤しんでいます。

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