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怪奇、洗練 黒沢清監督海外初進出作『ダゲレオタイプの女』レビュー

世界中に熱狂的なファンを持つ、黒沢清監督。
筆者も例に漏れず、その熱狂者のひとりである。

その黒沢監督の最新作にして、海外初進出作品である『ダゲレオタイプの女』が10月15日から公開中である。
21世紀の映画史を語るうえで、今後重要作品の一つとして数えられるであろう本作。


あらすじ

再開発中のパリ郊外の街の一角にある古屋敷を、青年・ジャンが職を求め訪ねてくる。
そこには気難しい中年のダゲレオタイプの写真家・ステファンが、娘・マリーと暮らしていた。ジャンはステファンの助手として採用される。
フランスで生まれた世界最古の写真撮影方法、ダゲレオタイプ。長時間の露光を必要とし、特殊な拘束器具で被写体を固定しなければならない。ステファンはマリーを被写体として固定し、日々その撮影時間を延ばしていく。
植物園で働く夢を持つマリーは、狂気じみた芸術家である父の想いを受け止めながらも、自分自身の人生を生きたいと願う。
そんなマリーに惹かれたジャンは、かつてダゲレオタイプの被写体で、首を吊って自殺してしまったマリーの母の存在を知り、マリーを屋敷から連れ出したいと願う…。

私たちは何を観ているのか

http://eiga.com/movie/84185/gallery/7/
http://eiga.com/movie/84185/gallery/7/

落ち着いていながらも、奇妙に漂うような視点。
電車、階段、再開発工事、路地、鉄門、屋敷、ビニールハウス……
歪んだ鉄門の先には、迷宮である屋敷。
不穏な空気と、ドアのきしむ音を耳にし、黒沢映画の世界に誘われる。

ダゲレオタイプは“一瞬”を切り取り“永遠”に焼き付ける。
映画は、カメラが、連続する時間を捉え続ける。
カメラはフレームに入る限り多くのものを捉え、写し取ってしまう。そこには意識的なものと、無意識的なものあるいは潜在意識的なものとがある。
個人的なことだが、映画を前にする時に心がけている事の一つとしてあるのが、「今自分は何を観ているのか意識的になる」ことである。短い時間の中で、多くの情報の中から取捨選択(本当は全部拾いたい…)していかねばならない。
黒沢映画はいつもそうだが、本作もまた、こぼれる光やカーテンのゆらめきが、この「何を観ているのか意識的になる」ことを喚起する。

境界線

http://eiga.com/movie/84185/gallery/
http://eiga.com/movie/84185/gallery/

本作には2種類の幽霊が登場する。

初めから幽霊として登場する幽霊と、人間だった者が物語の途中で死に、幽霊となるものだ。
このことは監督本人も言及していて、前者は西洋のホラーや近年のJホラーにおける幽霊の描き方であり、後者は古典的な日本の怪談における幽霊の描き方である。
後者のような、“人間として生きていたとき”を知っている私たちは、幽霊である彼らに対してある種の親しみを持つことができるだろう。生前と変わらぬ振る舞いを見ていれば、生きているのか死んでいるのか、そんな二極の疑問さえ消えてしまうかもしれない。
ところが前者のような、観客が「幽霊だ」と前提として分かっているのなら、その不可解な存在は恐怖の対象でしかなく、観客が歩み寄れる可能性は薄いだろう。

本作では、生者と死者が対等に描かれる。むろん2種類の幽霊のうち前者の幽霊には生者との間に境界を感じるが、後者の幽霊に関しては生者との境界を感じない。死者に向けられた眼差しはもちろんのこと、死者のいる空間と、隣り合う生者のいる空間をカメラのパンによりワンショットで観せることでも、その境界の不在が示される。死者を中心に捉えた、死者の気持ちにそっと寄り添うような、そんなシーンも印象的である。

映画において、“何かの境界線”としても機能する扉や、枠により隔てられた2つの空間を断絶させることなく地続きで観せる手法は、黒沢監督の得意とすることだと思うのだが、とりわけ本作では滑らかな横移動が美しい。
静かに何かが起こっていく様、何かが進行していく様を、横移動と長回しで見つめ続ける。
その横に向かっての移動に対し、“階段の上り下り”や“何かが落ちてくる”上下運動がもたらす効果も素晴らしいのだ。

フランス映画にして、完全なる黒沢映画。
是非とも劇場で、目撃して欲しい。

Writer

Yushun Orita

『映画と。』『リアルサウンド映画部』などに寄稿。好きな監督はキェシロフスキと、増村保造。

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