『ダンケルク』を日本唯一のIMAX次世代レーザーで観てわかった、109シネマズ大阪エキスポシティに行くべき理由

109シネマズ大阪エキスポシティで観る『ダンケルク』は、かつて観た『ダンケルク』とはまるで別の作品だった。天井から床まで壁いっぱいに広がった、視界に収まらない大きさのスクリーンに映し出される戦場は、かつて見たはずの光景とはまるで別物だったのである。
映画『ダンケルク』の特徴
109シネマズ大阪エキスポシティでの『ダンケルク』がどのような体験だったかを記す前に、まずはこの映画の特徴について簡単に振り返っておかなければならない。
『ダンケルク』は、第二次世界大戦中の1940年に起こった「ダンケルクの戦い」を描いたものだ。ドイツ軍によってフランス北端の港町・ダンケルクに追い込まれたイギリス・フランス連合軍の兵士40万人をいかに撤退させるか、という「ダイナモ作戦」が成功するまでの物語である。
しかし本作には、なぜそのような状況に陥ったのか、物語の舞台であるダンケルクの外側では何が起きているのか、ドイツ軍の動向は……そういった説明や要素がほとんど一切含まれていない。ノーラン監督が「映像で物語を語りたかった」と述べているように、背景の説明や登場人物のセリフがなるべく削ぎ落とされた作品なのだ。
もっといえば、『ダンケルク』は「ダンケルクの戦い」を陸・海・空の3視点から描いた“群像劇”であり、ずらされた時系列が鮮やかな構成で織り合わせられるストーリーだ。しかし本作は、「戦争とはなにか」「なぜ人間は戦うのか」ということを真正面から問いかける物語ではない。また、戦場やその周辺にいる人間同士の立場や心情がいかに絡み合い、その人間関係がいかに変化していくかという性質の“群像劇”でもない。3つの視点が絡み合うこと自体に人間ドラマとしてのエモーショナルな効果はほとんどなく、陸・海・空でそれぞれの人物がとにかく必死に頑張る、それだけに尽きるのである。
したがってスクリーンに映し出されるのは、ひたすら“その場”と“自分”しかない。いつ敵軍の戦闘機が飛来するかわからない海岸、燃料の残量を知ることすらできない戦闘機で飛ぶ空、そしてダンケルクへ向かって急ぐ民間船、そこに立っている“自分”だ。前述のように舞台の外側の様子が直接わかることはないし、ドイツ軍の兵士すら観客や登場人物の目には見えない。それでも、ただ危機だけが“その場”に忍び寄ってくる。
ノーラン監督は本作を「戦争映画ではなく、サバイバルの物語」だと形容している。まさしくその言葉通り、登場人物は“その場”を一生懸命に生きるしかない。降り注ぐ銃弾、爆弾、押し寄せる海水、得体の知れない人間そのものを相手にしながら、彼らは広い戦場をごく小さな個人として生きるのである。『ダンケルク』は、そうしたそれぞれの時間がスクリーンに立ち上がることで「ダンケルクの戦い」という出来事そのものを描き出していく映画だ。初めはバラバラだった時系列が少しずつ一点に結びついていく構造も、個人の生から出来事そのものへとフォーカスしていくストーリーテリングに深く繋がっている。

IMAX次世代レーザーが映し出す「余白」
109シネマズ大阪エキスポシティでの『ダンケルク』が格別の体験となりうるのは、本作がまさに“その場”と“自分”を映し出すことでストーリーを語る映画だからだ。視界に収まりきらないスクリーンには“その場”の風景と光、そこを生きている人間の表情が映し出され、場内には座席が震えるほどの戦闘機の轟音や波の音、それから秒針の音と音楽が鳴り響くことになる。
あえて言うならば、「通常のシアターでカットされる映像が上下に約40%広くなる」ということ自体は、『ダンケルク』という作品のストーリーを適切に理解する上ではなんら影響がない。作品を観て、その内容を理解することだけを考えるなら、わざわざエキスポシティを選ぶ必要はないのかもしれない。それでもエキスポシティのIMAX次世代レーザーに利があるのは、精緻に織り上げられたストーリーテリングからこぼれ落ちる風景がことごとく豊かになるという点だ。
たとえば海岸を歩く兵士たちを包む空や砂浜の広さが、戦闘機を操縦するパイロットの背後に広がっている雲やその眼下に広がる港町が、あるいは兵士でいっぱいになった船室の狭さと密度、その外側にある夜の海の暗さが、また突如として頭上に現れる戦闘機の轟音や銃声が、時に穏やかで時に激しい水の音が、それらすべてがダンケルクの風景として観客に迫ってくる。そしてそれらすべてが、ストーリーテリングには直接関係のないような“余白”も含めたすべてが『ダンケルク』という映画なのだ。圧倒的に豊かな余白を見ている時、観客もまた登場人物と同じく、その場に立ち会った「ごく小さな個人」になっている。
おそらくノーランの意図とは、観客をそうした各場面の風景に、もっといえばそれぞれの画面や音響に直接対峙“させる”ものだったのではないだろうか。対峙“できる”、没入する、といった生やさしいものではなく、暴力的なまでの映像と音響で観客を強制的にダンケルクへと送り込むこと。さながらその場に居合わせたかのように、ストーリー以外の部分に仕掛けられた余白へと観客を対峙“させる”ことだ。