【ネタバレ解説レビュー】強者の論理を超えて ─ 『イコライザー2』は「死者」に希望を与える物語

「俺は家を建てたかっただけなのに」

クリント・イーストウッド監督『許されざる者』(1992)のクライマックスで、リトル・ビル(ジーン・ハックマン)はそんな台詞を吐いてから主人公のウィリアム・マニー(イーストウッド)に撃ち殺される。リトル・ビルはビッグ・ウィスキーという町の保安官だったが、荒くれ者たちを放置し、商売女や有色人種たちを差別していた。しかし、本人にそんな自覚はない。ビッグ・ウィスキーに大きな家を建て、引退後は平穏に暮らす予定だったリトル・ビルからすれば、揉め事を持ち込んでくる商売女たちこそ邪魔者だからである。

一度力を手にした者が、弱者のために動くとは限らない。彼らは力に溺れ、自分の立場を維持するためにこそ力を行使する。そして、厄介なことに「自分は選ばれた人間である」と思いこんでいることが大半だ。彼らに社会的弱者の姿は目に入らない。なぜなら、興味がないからである。『イコライザー2』(2018)は、力ある者に蹂躙された弱者たちの物語だ。

『イコライザー2』

注意

この記事には、『イコライザー2』の内容が含まれています。

マッコールが出会う社会的弱者たち

CIAエージェントのロバート・マッコールは、表向きには死亡したことになっている。彼はマサチューセッツの古いアパートで、読書を趣味にして穏やかに生活していた。アパートの住人はガーデニングを愛するイスラム系のファティマ(サキナ・ジャフリー)や、ギャングとつるんでいる美学校生のマイルズ(アシュトン・サンダーズ)たちだ。やることもないので、マッコールはタクシードライバーとしても働いている。アパートやタクシーで出会う、さまざまな事情を抱えた人々。マッコールはアメリカ社会の弱者たちとともに毎日を送っているのだ。

ある日、ファティマの畑が何者かによって荒らされてしまう。アパートの壁にもひどい落書きとともに「GANG」の大きな文字が書き殴られていた。落ち込むファティマを見かねて、マッコールは壁を塗り直し始める。すると、通りがかったマイルズが笑う。「そんなの誰かに任せておけばいいのに」そう、マッコールが誰かのために働く必要などない。それでも、悲しんでいる誰かがいるのは紛れもない事実だ。

マッコールは深夜のタクシー勤務中、若い男から泣きじゃくる女性を送るように頼まれる。しかし、マッコールは女性を病院まで送り届けた後で、男のいるマンションへと向かった。男は友人たちと女性に暴行を加え、楽しんだのだ。広いマンションも使い放題のクレジットカードも親からのプレゼントなのだろう。マッコールは男たちに「撮影していたならデータを消せ」と迫る。マッコールがそこまでする義理はない。それでも、女性が消えない傷を負った事実は揺るがない。男たちはニヤニヤと笑う。「来るべきじゃなかったな、おっさん」29秒後、男たちは全員笑えない状態にされていた。

 

 

痛めつけられる女性たちが象徴するもの

ファティマもタクシーの女性も、自分ではどうしようもない力に蹂躙され、痛めつけられている存在である。本作における力なき女性たちは、現代社会の残酷な構造を象徴する。彼女たちが何か罪を犯したわけではない。ただ、一部の人間が、自分のわずかな楽しみのために攻撃対象を見つけてしまったのだ。

そして、マッコールの長年の友人、スーザン(メリッサ・レオ)も男たちの手によって殺されてしまう。スーザンはCIAの協力者が拳銃自殺した事件で、偽装殺人であることを見抜いてしまった。その直後、彼女自身も強盗殺人に見せかけて口を封じられたのだ。映画はスーザンの死を、直前まで詳細に映し出す。暴漢たちを前にして必死の抵抗をし、それゆえにいたぶられていく彼女の苦痛と恐怖を観客に見せつける。スーザンの死はあまりにも理不尽で無慈悲だ。彼女は職務をまっとうしていただけなのに。 

ファティマを慰め、見ず知らずの女の仇討ちをするマッコールである。友人の死を放っておけるはずがない。かくして、マッコールはスーザンとパートナーを組んでいたヨーク(ペドロ・パスカル)に連絡を取る。ヨークはエージェント時代、マッコールの相棒も務めていた男だ。そして、協力して黒幕を見つけようと誓い合う。マッコールの行動にはまるでブレがない。「イコライザー(均衡をとる者)」と呼ばれる所以である。

イコライザー2

Equalizer 2

肉体的・社会的な「本当の死」とは

マッコールの生き方は正義と良識に満ちているように見える。だがその実、あまりにも信念に隙がなさすぎて異常だ。誰もがマッコールのように生きられるわけではない。マッコールになついていたマイルズはあっさり、ギャングのもとに戻っていく。ギャングたちはいわゆるストリートビジネスに手を染めていた。麻薬を売り捌き、殺しもいとわない連中である。力があるなら弱者から巻き上げればいい。非常にわかりやすい原理のもと、社会は成り立っている。マイルズは才能ある絵描きだが、コツコツと壁を塗るよりも1人に麻薬を売りつけるほうが金持ちになれる。

しかし、マッコールはマイルズを悪友から取り返す。マイルズはもう少しで殺人に加担するところだった。マッコールは激しく叱りつける。

「おまえは死を知らない!」

言うまでもなく、マッコールは本当の死を知っている側の人間である。そして、彼自身が死者として生きてもいる。

マッコールの言う「本当の死」とは何だろうか。それはおそらく「無」を意味する。当たり前のような答えだが、それを意識して生きている人間は少ない。また、肉体的な死だけでなく、社会的な死を迎えることもある。事実として、生きながらにして死者のように扱われている人間が、我々の暮らす世界にはあふれている。当然の権利が認められず、存在するだけで誹謗中傷の標的にされ、尊厳を奪われている人間が。彼らや彼女らの声は権力者に届かず、権力者もまたその声を聞こうとしない。社会は大前提として強者のために作られている。市場原理主義を認めた時点で、弱者とはすなわち、死者と同等の存在にまでおとしめられた。

それでも、マッコールは死者として、社会的弱者に同化することができる。『イコライザー2』は、前作以上にこの点が強調されている。

イコライザー2

人種や宗教を飛び越えた概念としてのイコライザー

本作の冒頭、マッコールはユダヤ教のラビ(宗教的指導者)の変装で登場した。その後、ヘルマン・ヘッセ『シッダールタ』を読んでいる描写がある。タイトルが示すようにブッダの生涯を描く小説だ。マッコールの親友は白人インテリ層の女性・スーザンだが、住んでいるアパートには中東系も黒人もいる。マッコールは宗教や人種を飛び越えた概念のように、この世界を漂っている。そう、クリント・イーストウッドが自身の監督・主演作で描いてきたガンマンのように。『許されざる者』や『荒野のストレンジャー』(1973)は紛れもなく亡霊の映画と言い換えられるだろう。そして、マッコールもまた、しがらみや私欲に関係なく世界のバランスを保とうとする亡霊なのである。

スーザン殺しの黒幕がわかった。その人物は、大きな庭付きの家に、妻子と幸せに暮らしていた。きっと、『許されざる者』のリトル・ビルもこんな生活に憧れていたのだろう。黒幕はマッコールにこう告げる。

「世の中に正義も悪もない。不運な人間がいるだけだ」

まさしく真理である。だが、それは強者の定めたこの世の真理だ。自分が素敵な家で素敵な家族と暮らすためなら、弱者を犠牲にしていいという人間たちの考えである。ならば、それはマッコールにあてはまらない。マッコールという絶対的なイコライザーを前にして「幸運」「不運」という価値観は無効化されるからだ。そもそもマッコールを怒らせた時点で、その人間は不運でしかない。

イコライザー2

Equalizer 2

ラストの決戦で、マッコールはかつて妻と住んでいた町に黒幕たちをおびき寄せる。嵐の中、マッコールを認識できないまま、黒幕たちは次々に命を落としていく。まるで死者に奈落の底へと引きずりこまれるように。『イコライザー2』は死者と同様の立場しか与えられていない、社会的弱者の声を蘇らせる物語だ。現実が均衡を崩し、弱者を弄り続ける限り、マッコールのようなキャラクターを観客は求め続けるだろう。

『イコライザー2』公式サイト:http://www.equalizer2.jp/

About the author

京都在住、農業兼映画ライター。他、映画芸術誌、SPOTTED701誌などで執筆経験アリ。京都で映画のイベントに関わりつつ、執筆業と京野菜作りに勤しんでいます。

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