【考察】『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー: リミックス』人間関係、まずは壊してから?

大盛況の映画『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス」。
Tシャツなどのグッズもどれも魅力的でまだまだ盛り上がりは続くでしょう。(スタジオの戦略通りのお金の使い方をしていますが、気にしてはいけません。楽しければそれでよいのです。ありがとうマーベル!ビバ!マルチプロダクツ戦略!)
とにかく、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』は面白いです。ここでは「何でこんなに面白いのか」「他のヒーロー映画と何が違うのか」を少し言語化してみようと思います。
アベンジャーズとの関わりの予測や80年代音楽、引用された作品の解説は他の方にお任せするとして、この記事では『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー: リミックス』で人間関係がいかに細やかに描かれているかを確認します。
【注意】
この記事には、映画『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』のネタバレが含まれています。
スーパーヒーローに「ならない」
主に前作への指摘かもしれませんが、これが最も大きなポイントではないでしょうか。
一般人がヒーローになるまでの経緯を辿ったり、ヒーローであることと人間であることの狭間で苦しむ、というのが王道の展開ですがガーディアンズ・オブ・ギャラクシーはハズしてきます。
カレーライスにトッピングを足して楽しんだり、「カツ乗せすぎて胃もたれするな」と苦しむのが王道ヒーロー映画だとすればガーディアンズ・オブ・ギャラクシーは既に最初からターメリックライスがあって、横に色んな種類のカレーの小皿がある、というような感じですかね。インドカレーアラカルト状態です。
主人公のピーターは勿論、ガモーラやドラックスは最初から安定した戦闘力を持っていますし、グルートやロケットも最初から木、最初からアライグマです。それぞれのキャラの内面に注目しても「そりゃあ大変だ」というノリで結構軽くカラダを張ります。大きな心境の変化はありません。前作でチームになった当初の成り行きも「敵の敵は味方」というような「利害の一致」。問題解決に向けて淡々と課題をこなし、チームの歯車が噛み合うところに焦点が当てられています。
また、「安定した戦闘力がある」と書きましたが、「圧倒的な戦闘力」ではありません。チームとして団結して初めて悪に対抗しうるまとまった戦力となることが出来ます。敢えて言うならチームに「なる」物語だと表現できます。そういった理由で『スター・ロード』ではなく『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』というタイトルなのではないでしょうか。
決め手は「スクラップ・アンド・ビルド」!
正直、上の内容はバディ物、チーム物がなぜアガるのかを説明したに過ぎません。昨今のマーベル映画、ヒーロー映画では少し珍しいだけで燃える(萌える)チームものは映画に限らず古今東西にたくさんありますよね。しかし、ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーはこの人間関係の描写の説得力がしっかりして頑丈なんですよ。
「なんか仲間になったけど、何で?」「そういえば何でこの二人恋仲なん?」というような疑問符を一切与えません。そのような脚本の甘さはひとつもありません。
その理由は人間関係のスクラップ・アンド・ビルド。既存のものを壊し、再構築することでモノの本質が見えてきます。
例えばアニメ映画を見ていて、キャラがただ食事をしている「だけ」なのに、ただ歩いている「だけ」なのにハッとさせられるような体験をした覚えがありませんか?実写ではなくアニメという方法で改めて・あえて表現されることで感じ取れるものがあると思います。これと同じことがガーディアンズ・オブ・ギャラクシーでは人間関係で行われています。一度人間関係を壊し、新たな関係を再び築きあげることで人間関係の本質を見せてくれます。
ピーターとヨンドゥ、そしてエゴ
ここで例に出したいのはやはりピーターとヨンドゥ。
ピーターは実の父親エゴと初体面を果たします。一度はキャッチボールをするほどの親子愛を見せてくれますが、父のエゴが宇宙を滅ぼそうとしていることが判明し事態は急変。両者は真っ向から対立することになります。ピーターを助けるためヨンドゥは死去。文字通りの死闘の末、彼はヨンドゥこそが自分にとって真の父親であることに気付き、亡骸に向かってそう宣言します。
親子関係が完全に瓦解し、新たに別の、そしてより強固な親子関係が生まれます。
前作ではヨンドゥを裏切って(しかも冒頭とラストで2度も)います。ヨンドゥは内心ではそれを許しているものの、建前上の対立関係にあった二人が親子になるわけですから、ここでも小さなスクラップ・アンド・ビルドが見られます。ほかにも、スクラップ・アンド・ビルドは随所に散りばめられています。