『ダンケルク』公開中の今こそ考えたい ― 『ゼロ・グラビティ』は本当に「体感型ムービー」だったのか?

クリストファー・ノーラン監督最新作『ダンケルク』の感想の中に、しばしば『ゼロ・グラビティ』(2013)が登場しています。シチュエーションの特殊性や観客の没入感などを称え、『ダンケルク』同様に“映画館での鑑賞必須のライド系アトラクション”=いわゆる“体感型ムービー”として語られることが多い作品です。

しかしアルフォンソ・キュアロン監督や主演のサンドラ・ブロックは作品について、「映画の中の逆境はどれも、日常生活における逆境の暗喩」、「万事尽きた後でさえ、人を奮起させる力を描いている」と語っています。そのテーマを言葉ではなく視覚的暗喩で描きたかったのだと、本作の映像技術について話すキュアロン監督の言葉に従えば、体感型ムービーという外観に隠れた数々の暗喩が見えてきそうです。

宇宙空間に放り出された主人公の孤独と地球帰還までを描いた『ゼロ・グラビティ』は、観客に主人公同様の宇宙体験を迫る映像技術によって、映画史に革新的な手法をもたらしました。7冠を受賞したアカデミー賞も多くは映像と音響関連とあって、IMAX&3Dという視聴環境が必須であるという認識が一般的なようです。

しかし主人公のライアン・ストーン博士(サンドラ・ブロック)には、「体感型ムービー」という形容を上回る精神的な葛藤が背負わされています。そこで本記事では、ライアン博士の抱える閉塞感を、宇宙でミッションを共にするベテランクルーのマット・コワルスキー(ジョージ・クルーニー)が優しく諭す場面がとても印象的な、『ゼロ・グラビティ』の真実の物語に迫っていきたいと思います。

注意

この記事には、映画『ゼロ・グラビティ』、および『127時間』『ロスト・バケーション』のネタバレが含まれています。

宇宙を舞台に描かれる精神的な生還

『ゼロ・グラビティ』の主人公ライアン博士には、娘の不運な死に打ちひしがれ、無音である宇宙空間に慰めを見出しているというサイドストーリーがあります。つまり『ダンケルク』や、『ダンケルク』との近似性が注目されている『シン・ゴジラ』(2016)にはない“主人公の感傷、独善性”が描かれているのです。

ここで、『ゼロ・グラビティ』という作品において大切なのは、主人公のライアン博士が、“自身の喪失感を乗り越える”ことなのだと分かります。この点をもって、体感型ムービーというイメージの奥にある普遍的な物語が見えてきます。

この作品の主な登場人物はライアン博士とマットの二人だけですが、そのキャラクターは陰と陽に極端に分かれています。陰の部分を担うライアン博士に対して、一切の葛藤を持たない陽気な人物として描かれているマットは、心を閉ざしているライアン博士に地球での生活について質問攻めにしたり、自分の過去の逸話をしつこく語ったりと終始ジョークを欠かしません。
不慣れなライアン博士を導く存在として、絶えず通信機で語りかけるマット。ライアン博士が作業をしている時、パニックに陥っている時、一段落ついた時、別れの時、さらには自身の死後に至るまで、片時も離れずに彼女の耳元で励まし続けます。

ライアン博士がついに絶望したまさにその時、他愛もない話をするために、マットは再び彼女の元へやってきます。ライアン博士の絶望を逆なでするように煽るマット。「生きる意味がどこにある?」という否定の後、「だが問題は、今どうするかだ」と揺さぶります。「旅を楽しめ」と。ここで登場するマットはライアン博士に芽生えた陽性の象徴であり、彼女自身の新たな人生観によって、今まで見えなかった新たな選択肢に気付いていくのです。

どうすれば助かるかではなく、なぜ助かりたいのか

つまり『ゼロ・グラビティ』は、“自分自身を生きる意味”を見つけ出す主人公ライアン博士の、精神的な生還の物語なのです。
冒頭で示された主人公の抱える問題が、サバイバルの過程で解消されていくという物語であり、実に普遍的な寓話です。このように“主人公の行動を淡々と追いかけるサバイバル映画”に寓話性がある場合、次のような特徴も見えてきます。“主人公の懺悔(ざんげ)シーンの有無”と、“帰還した際の主人公に普遍性があるかどうか”という点です。

同じく地球外からの帰還を描いた『オデッセイ』(2016)の主人公マーク・ワトニー(マット・デイモン)は、火星からの帰還後、稀有な存在として訓練生の前に現れます。同じくスペシャリストの危機管理を描いた『シン・ゴジラ』でも、主人公の矢口蘭堂(長谷川博己)は偉大な功績を残した政治家として、日本のその後を背負う覚悟を決めます。また、主人公には一切の感傷や独善性がなく、あくまでプロフェッショナルとして任務を遂行する姿がロジカルに描かれていきます。

ですが『ゼロ・グラビティ』におけるライアン博士のサバイバルは日常生活の暗喩で、劇中には“冒頭で示した自分らしさを、クライマックスで主人公自身が覆す”という懺悔シーンが描かれています。この懺悔シーンを経ることで本来あるべき自分自身へと至り、地球帰還後は人間としての、よりシンプルな生の肯定によって幕を閉じます。非日常を体験することで、より良く日常に帰っていくという話なのです。

非日常を乗り越える『127時間』『ロスト・バケーション』

グランド・キャニオンの峡谷に閉ざされた男を描いた『127時間』(2011)、サメ映画でありながらも主人公が家族と向き合う様子を描いた『ロスト・バケーション』(2016)なども、一見ジャンル映画のようでいて、その実は『ゼロ・グラビティ』同様にシンプルな生のありようを肯定している作品と言えます。
これらの作品に共通するのは、映画が始まった時点での主人公が、決して好人物ではないという点です。

『127時間』の主人公アーロン・ラルストン(ジェームズ・フランコ)はある日、行き先を誰にも知らせることなく、連絡手段も持たずにグランド・キャニオンの峡谷へ出向きます。そこで巨大な岩に腕を挟まれた彼は、自らの独善性にその原因を見出し、自分の人生を回想していくのです。
また『ロスト・バケーション』では、サーフィン中にサメに襲われた主人公ナンシー(ブレイク・ライヴリー)が、母の死と向き合い、避けていた家族を受け入れる心境の変化が描かれています。その中で、自分が何をしたことで今に至っているのか、そして何が自分の人生を駆り立てていたのかを再確認していくのです。

アーロンは今まで出会った人々との日々を思い出し、ナンシーは医学生としての自分を見つめ直します。太陽と渡り鳥に感謝を捧げるアーロンや、寄り添ってくれたカモメの怪我を治してあげるナンシーの姿は、ずっと周囲にありながらも気付くことのなかった人やモノ、そして自分を知っていくことの素朴な大切さを教えてくれます。

非日常的なサバイバルの中で主人公はそれまでの人生を回想し、新たに人生を定義し、精神的な重荷を降ろして生還する。『ゼロ・グラビティ』のライアン博士と同様に帰還したアーロンとナンシーは、よりシンプルに自分を肯定し、家族や仲間と向き合う新たな一歩を踏み出していきます。

『ゼロ・グラビティ』では、ライアン博士の無線を傍受したイヌイットの男性・アニンガとの交流や、故郷のレイクズーリックへの想い、そして今は亡き娘への独白によって、主人公の大きな変化が描かれます。アニンガの飼っている犬と共に吠えるライアン博士の流した涙に象徴されるように、一人の人間の、再生の物語なのです。

つまり『ゼロ・グラビティ』とは、日常生活や社会制度を、視覚的暗喩である宇宙空間を通して“体感する”映画なのです。その意味で体感型ムービーであることに変わりありませんが、主人公の気持ちはあくまで観客に近しいものです。映画館で観られなかったことを後悔している人も多いと思いますが、実はとても身近で普遍的なテーマを描いた作品であるというのが、本来のかたちなのかもしれません。

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