【考察レビュー】『聲の形』に視る”自分を許す”ということ
『涼宮ハルヒの憂鬱』などを製作し日本のアニメーション業界をけん引してきた京都アニメーションの最新作『聲の形』を解説します。監督は『けいおん!』の山田尚子。小学校時代に耳の不自由な転校生の西宮をいじめてしまった石田を主人公に設定し、犯してしまったかつての過ちに苦しむ高校生たちの姿を繊細に、そしてフレッシュに描きます。
【注意】
この記事には、映画『聲の形』のネタバレ内容を含みます。

コミュニケーションの難しさ
早速、物語を読み解いていきます。本作の中心的テーマはなんだったのでしょう?私は「コミュニケーション」だと思います。近年やたらと「コミュ力」が持てはやされる通り、血縁・地縁の希薄化、インターネットやSNSの普及によるヴァーチャルな人間関係の普及は「コミュニケーション」のあり方を変え、否応なく我々にその価値を考えさせます。就職活動や恋愛では「コミュ力」が勝敗を決するかのような雰囲気です(最近の「コミュ力」は他人との関わり方のうまさを測る指標というより、自己表現のみに注目した表現と取れなくもありませんが)。また世界に目を向ければ宗教や民族の違いを原因とする紛争やテロが後をたちません。多くの人にとって「コミュニケーション」が重大な関心事となっている、それが現代社会なのでしょう。こうした最近の流れにぴったり寄り添っているのが『聲の形』だと思います。
海の向こうで起きている戦争、身近なケースでいえば些細な迷惑を発端とする暴行事件や学校でのイジメのニュースを耳にするにつけ、どうしてもっと「コミュニケーション」を徹底しないのだろうと感じます。もっとしっかり話し込めば、もっと相手の言うことに耳を傾ければ、こんな悲劇は生まれなかったのに。そういうやるせない気持ち、無力に襲われることがたくさんあります。おそらくほとんどの人は「コミュニケーション」の大切さをわかっているのです。しかし、頭では理解していても、いざ自分が問題の立場に立たされてみると、なかなか実践できないのではないでしょうか。思い通りにいかないのが当たり前なのです。
『聲の形』はそういう他者と交わるもどかしさや難しさを表現した作品です。西宮の患っている難聴がその極端な象徴になっています。私は生まれてからずっと耳が使えますから、音がわからないという状態は理解できません。しかし、その恐ろしさを想像することはできます。耳が聞こえなければ、当然ながら声の調子やテンポ、リズムで相手の感情を汲み取ることができないのです。かなり苦労するだろうと思います。意外と会話における言葉のウェイトは軽くて、私たちはほとんどの情報を表情や音声に頼っています。「コミュニケーション」は繊細で難しい作業なのです。
西宮はそういった会話のツールを制限されてしまっています。しかし小学生にはそれを理解することは難しいようです。たとえわかっていても、相手のために我慢するという発想には至らず、思い通りに分かり合えないイライラをそのまま周囲に発散してしまいます。たまに大人でも同じことをしている人がいるくらいですから、ましてたくさんの人間がいる小学校で子どもたちが自主的に調和するのを期待するのにも難があります。本当は担任が調整役を担わなければならないのですが、『聲の形』では先生が何もしなかったために事態が悪化します。正直なところ、ここで先生がアクションを起こしていれば、石田も西宮も、他のみんなも苦しまずに済んだはずです。そう考えると、この先生が一番悪い気もしてきます笑
西宮が小学校時代に経験するイジメの場面では、ひたすら相互不理解によるコミュニケーション不全で事態が悪化していく様が描かれます。結局、イジメの主犯格だった石田もイジメの対象になってしまいます。その原因も悲しいものです。西宮の母親による抗議で動き出した先生によって石田は吊るし上げられてしまうのです。西宮のイジメに加担していた他の児童は自分に非難の矛先が向かうことを恐れ、自己保身に走ります。そうして石田はスケープゴートになり、新たなイジメの対象として辛い経験をすることになるのです。小学生の無邪気さとは非常に残酷なもので、自分が悪いことをしていると自覚していない、もしくはわかっていても歯止めがきかないために、とんでもなく怖いことを平気でしてしまうのです。そこに思いやりなどなく、すべてのエネルギーは自己正当化と保身に注がれます。しかし彼らを責める気になれないのも、もどかしいところです。言動は卑劣極まりないのですが、果たして未熟な小学生をどこまで非難していいのでしょうか。行為を恨むことはできても、行為者そのものを嫌いになる気にはなれません。ここもやっぱり本来は大人の出番のはずなのですが…先生はなにもしません。最後まで石田たちの問題に救いの手を差し伸べるものは現れず、彼らは傷ついたままバラバラの進路を歩みます。