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【考察】排斥と絶望の映画『LOGAN/ローガン』は「自由」の敗北宣言なのか?メキシコからカナダへの逃走劇が意味するもの

『LOGAN/ローガン』理解のために外せない前提

よく言われる話だが、『X-MEN』原作が60年代の公民権運動真っ只中に刊行開始されたのは偶然ではない。事実、プロフェッサーXとマグニートーの関係は、公民権運動の指導者だったキング牧師とマルコムXの関係がモデルになっている。『X-MEN』はアメリカ激動の時代の映し鏡であり、アメコミ界から公民権運動へのエールだったのである。

しかし、映画版『X-MEN』シリーズが、たとえば同じマーベルコミック原作の『アベンジャーズ』シリーズと同等以上の評価を得られたかといえば、かなり怪しいだろう。原因は現実世界との距離感を正しく掴めなかった点にある。『X-MEN』原作が描いたのはリアルタイムの問題だったが、それから40年が経過し、人種差別の形が変わった後でも映画版はあくまで公民権運動のメタファーとして構成されていた。よって、シンガー版『X-MEN』はどこか時代錯誤的にどん臭い感触を残し、問題提起そのものが的外れにも見えた。監督をマシュー・ヴォーンに任せ、作品としての出来は秀逸だった『X-MEN: ファースト・ジェネレーション』(’11)ですら、ついぞ同時代性は宿らなかった。ただ、シンガー版の前日譚という構成ゆえに、「時代劇的」な構成が看過されたのである。

 『ウルヴァリン: SAMURAI』(13’)から『X-MEN』シリーズに参戦することとなったジェームズ・マンゴールドは、シンガー版『X-MEN』に欠如していたカウンター性を取り戻そうとした。断っておきたいのは、何も優れた映画作品は必ずしも反体制的であるべきだとかいう暴論を振りかざしたいわけではない。ただ、『X-MEN』シリーズが刊行当初からカウンターカルチャー的なスピリットを継承していた以上、映画化の際にも現代のアメリカについて言及することが相応しいのではないか。

『ウルヴァリン: SAMURAI』でマンゴールドは不死身のミュータント、ウルヴァリンの肉体を通して世界の残酷さを描いた。冒頭、ウルヴァリンは、おそらくハリウッド映画史上、初めて描かれた長崎原爆の被爆者として登場する。いきなりアメリカから疎外され、存在を否定された化け物として描かれるのだ。そして、愛する女性を守るために無数の矢を打ち込まれ捕獲されるという残虐描写もある。まるで、人類の火をもたらした代償として、生きながら内臓を鷲に食われ続ける罪を背負ったギリシャ神話の登場人物、プロメテウスのように。ウルヴァリンが毒矢で苦しむ熊に自らを重ね、犯人を痛めつけたのを覚えているだろうか。マンゴールドはウルヴァリンの負う傷を、人間の悪意の象徴として描こうとしたのである。シンガー版が他人事のように冷めた視点で描いた問題を、マンゴールドはより普遍的なテーマとして伝えようとした。映画『X-MEN』シリーズ、とりあえずの幕引きとなる『LOGAN/ローガン』(’17)を解釈するうえで、この前提は外せない。

【注意】

この記事には、映画LOGAN/ローガン』『ウルヴァリン: SAMURAIのネタバレが含まれています。

©2017Twentieth Century Fox Film Corporation
©2017Twentieth Century Fox Film Corporation

薬漬けのプロフェッサーX…ミュータントは「大量破壊兵器」

LOGAN/ローガン』において、ウルヴァリンの負う傷には二つの意味がある。戦いによって受ける肉体的な傷、そしてアダマンチウムが蝕む体内の傷だ。2029年、かつての仲間たちが消え去り、新たなミュータントも生まれない世界でウルヴァリンことローガンはタクシードライバーとして生きている。足を引きずって歩き、チンピラを追い払うのも一苦労のローガンには、かつての面影はない。無敵の治癒能力も弱まってしまっている。プロフェッサーXは認知症を患い、能力を暴走させないよう、廃工場に隔離されてローガンの手で薬漬けにされている。ローガンの唯一の望みは貯金で船を買い、プロフェッサーXと二人静かに海上で暮らすことだ。

廃工場がメキシコ国境に位置することからも分かるように、死滅寸前のミュータントたちの姿は排他政策が進行したアメリカの未来である。本作の脚本が完成したのは昨年の大統領選挙の前だったはずだが、トランプ政権を予期していた内容に驚かされる。2029年、ミュータントは差別の対象どころか排斥の対象となっていたのだ。ローガンの痛々しい姿はトランプ政権で予想される未来と容易に重なる。ローガンを死に追い込んだのは武器ではなく悪意だった。

メキシコ人女性に頼まれ、ローラという少女を預かることになったローガンだったが、ローラはもう生まれるはずのないミュータントだった。ローラを追って特殊部隊がやって来る。リーダーの名前はドナルド(!言うまでもなくトランプのファーストネームだ)。彼は家宅捜索を行う理由としてミュータントを“Weapons of mass destruction(大量破壊兵器)”と呼ぶ。ブッシュ大統領が2003年、イラク戦争を開始したとき、侵攻の根拠として挙げたフレーズだ。ちなみに、その後の調査で大量破壊兵器の存在は確認されなかった。

かくしてローガンとローラ、プロフェッサーXの逃走劇が始まる。死の淵に瀕したミュータント2人がメキシコ人少女を守るという展開を現代のアメリカ人がどう見るのか気になるところだ。もっとも、3人の中で一番戦闘力が高いのは、ローガンの遺伝子から生まれたローラなのだが…。 

『LOGAN/ローガン』はアメコミ版『ラスト・シューティスト』?

LOGAN/ローガン』ではローラとプロフェッサーXがテレビで『シェーン』(’53)を鑑賞するシーンがある。その時点で3人がカウボーイファッションに身を包んでいること、台詞が後に引用されることなどから『LOGAN/ローガン』が『シェーン』を下敷きにしているという見方もあるだろう。しかし、実際のところ『LOGAN/ローガン』作中でより参照点が多い西部劇はドン・シーゲル監督『ラスト・シューティスト』(’76)である。アメリカン・ニューシネマ真っ只中に公開され、旧世代の象徴とされていたジョン・ウェインの遺作となった一本だ。

西部劇史上最大のスターだったウェインだが、それゆえに70年代のエッジが効いた新世代の映画作家からは仮想敵のように扱われてしまった。かつての英雄から唾棄すべき老スターとなってしまったウェインは『ラスト・シューティスト』で癌に侵されたガンマン、ブックスを演じている。死を覚悟したブックスは静かに暮らそうと試みるが、悪党たちは許してくれない。若いガンマンたちがブックスをこの手で仕留めようと町に集まってくる。ブックスは戦いしかない人生を受け入れ、病を堪えながら死地へと赴く。

撮影当時、ウェインは実際に末期癌で死を宣告されていた。『ラスト・シューティスト』はかつての大スターにとっても自ら選んだ死に場所だったのだ。『LOGAN/ローガン』でボロボロの肉体を酷使しながら最後の戦いを続けるローガンは、シェーンよりも遥かにブックスの姿に似ている。また、『LOGAN/ローガン』のラストを提案したのはローガンを演じるヒュー・ジャックマン本人だったという。主演俳優が幕引きを選択したという意味でも2本はそっくりだ。もちろん、ジャックマンが幕を引いたのは映画シリーズであって、人生ではないが。

 LOGAN/ローガン』で西部劇を踏襲しているエピソードは、中盤、農家に食事と宿を提供してもらう流れだろう。先を急ぎたいローガンをプロフェッサーXが頑なに引き止める。ベッドでプロフェッサーXは言う。「久しぶりに穏やかな時間を過ごしたかったんだ」

しかし、一家も決して平穏な毎日を過ごしているわけではない。大農場に迫害されている彼らは畑に送る水を止められる嫌がらせを受け続けている。そんな弱い立場の彼らを黒人として描いているのにもまた、人種問題への意識がうかがえる。ローガンは西部劇のヒーローのように大農場の暴漢たちを退けるが、後により大きな悲劇が待ち受けていた。

最終的に、ローガンたちを温かく迎えてくれた家長は、ローガンに銃口を向ける。『ウルヴァリン: SAMURAI』でも黒幕は、かつてローガンが命を救った男だった。ローガンの善行は報われることがない。まさにプロメテウスだ。

『LOGAN/ローガン』の光景は日本にも迫っている

それにしても『LOGAN/ローガン』でもっとも胸が痛むのはプロフェッサーXの耄碌ぶりである。もはや能力をコントロールすることもかなわず、認知症で状況を認識できていないこともしばしば。戦闘が始まっても“It’s all right”と弱々しく繰り返すことしかできない。結果的にだが、農場のエピソードでも彼の望みが深刻な事態を招いてしまう。多くのアメコミファンを興奮させてきたローガンの肉体的強さも、プロフェッサーXの精神的強さも本作にはない。世界が彼らを弱き存在へと変えてしまったのだ。ここでいう世界とはアメリカと呼んでもいいだろう。

最終的に物語はカナダへの国外脱出へと向かう。メキシコからアメリカへと逃れてきた人々が、カナダへと至る映画。それをアメリカが撮ってしまった事実は、アメリカの良心の敗北宣言に等しい。たとえば、『フローズン・リバー』(’08)のような作品は、非合法ではあっても移民をアメリカが受け入れる物語だったのではないのか。だからこそ『マチェーテ』(’10)のようなアクションコメディでも「アメリカにさえ入国できればなんとかなる」という前提が設定できたのではないか。『LOGAN/ローガン』が観客に突きつけるのは磨耗しきったアメリカの自由である。シリーズ最終作はシリーズ中、もっともシビアな現状認識に貫かれていたのだ。 

本作のエンドロールに流れるのはジョニー・キャッシュの“The Man Comes Around”だが、予告編では“Hurt”が使用されていた。元々はナイン・インチ・ネイルズのアルバム“The Downward Spiral”(’94)最終曲だが、現在ではキャッシュのカバー版のほうが知られている。

 

 俺が何者かを知る親友

 誰もがもう消えてしまった

 最後にはおまえの望みどおりになる

 この汚れた帝国で

 俺はお前を失望させるだろう

 そしてお前を傷つけてしまう

 (“Hurt”)

LOGAN/ローガン』は排斥と絶望の映画である。傷だらけのローガンを見て、あなたは「もう終わりだ」と感じるだろうか。それとも「何とかしなければ」と思うだろうか。共謀罪法案が衆院を通過し、日本でも『LOGAN/ローガン』に描かれた光景がすぐそこまで迫っている。

Writer

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石塚 就一就一 石塚

京都在住、農業兼映画ライター。他、映画芸術誌、SPOTTED701誌などで執筆経験アリ。京都で映画のイベントに関わりつつ、執筆業と京野菜作りに勤しんでいます。