『マグニフィセント・セブン』で明らかになったアントワーン・フークア監督の作家性~称賛なき映画作家へのエール~
?アントワーン・フークアの微妙な立ち位置
現在公開中の『マグニフィセント・セブン』は『荒野の七人』(’60)のリメイク作である。しかし、アントワーン・フークア監督作の最新作だと認識している人はあまりにも少ない。
もっといえば、『トレーニング・デイ』(’01)をデンゼル・ワシントンがアカデミー主演男優賞を獲得した映画だと認識している人はいても、フークアが監督だったと覚えている人は少ない。
アントワーン・フークアについて、「達者」以上の言葉で賞賛する声が聞かれないのはなぜか。MV出身でチョウ・ユンファのハリウッドデビュー作、『リプレイスメント・キラー』(’98)が初監督作品というフィルモグラフィーが彼の微妙な立ち位置を物語る。『トレーニング・デイ』のほか、『ザ・シューター』(’06)などの佳作を物にしている一方で、彼への業界内評価は正直、「デンゼルのご用達」や「使い勝手が良い職業監督」程度だろう。
そんなフークアの存在感がここ数年、急速的に増している。

社会派でも芸術家でもなく
決して芳しい評価を得たとは言い難い『エンド・オブ・ホワイトハウス』(’13)は、別人が監督した続編の失敗によって逆説的にフークアの手腕を証明した。『イコライザー』(’14)、『サウスポー』(’15)はいずれも陳腐な設定をスター頼みで盛り上げた映画としか言いようがないが、課せられたハードルを水準以上の演出でクリアし、企画のポテンシャルを大きく上回る完成度にまで高めた。
これだけの成果を残してもフークアを映画作家として称える動きが見られないのは、ひとえに彼が「社会派」でも「芸術家」でもないからである。『トレニーニング・デイ』にせよ、『クロッシング』にせよ、アメリカのスラム街や警察の腐敗を描いた「社会派ドラマ」として仕上げることは十分に可能だったはずだ。そう、たとえばシドニー・ルメット『セルピコ』(’73)のように。しかし、フークア作品は社会的なテーマ以上に映画的な触感を優先させる。『トレーニング・デイ』では新任刑事であるイーサン・ホークの地獄めぐりという視点を導入することで、映画の臨場感を高めた。『クロッシング』の群像激は物語のフックとしてこそ機能していた。映画をあくまで娯楽として着地させるフークアの姿勢は、映画から社会分析を行いたくてたまらない人々にとっては邪魔でしかないのだろう。?
作家としては認められず、それでも鮮烈な演出力を研ぎ澄ませてきたフークアが、『荒野の七人』リメイクを手掛けることになったのはまさに適任だった。『荒野の七人』の映画史的評価はフークアのそれと類似していたからである。
『荒野の七人』はハリウッドでスタジオシステムが崩壊し、映画産業の転換期にユル・ブリンナーやスティーブ・マックイーン、チャールズ・ブロンソン、ジェームズ・コバーンといった新世代のアクションスター達が勢揃いした西部劇とは名ばかりのアクション映画だった。かつての西部劇とは似ても似つかないムードの中で展開される殺戮劇は、決闘や騎馬戦にこそ美学を見出す西部劇ファンから反感を買ったのだ。
アクション映画としては素晴らしく、しかし西部劇としては認められない…。映画史の中で収まりの悪い、自分のような立ち位置の名作、『荒野の七人』をアントワーン・フークアはどんな思いデリメイクしたのだろうか。?
完全なるスター映画としての『マグニフィセント・セブン』
『マグニフィセント・セブン』でとにかく印象的なのはデンゼル・ワシントンの年齢不詳ぶりである。おそらく実年齢よりもかなり若い設定だろう。そして、ラストまで傷も汚れも一つとしてつかないままなのに驚かされる。
『荒野の七人』にせよ、原案である『七人の侍』にせよ、七人の戦闘集団をとりまとめるのは最年長者、という構図は変わらなかった。『荒野の七人』ではユル・ブリンナーが、『七人の侍』(’54)では志村喬が他の六人に振り回されることで物語が加速していく。しかし、ワシントンはほとんど六人と関わろうとしない。唯一、イーサン・ホーク演じるスナイパーには説教をぶつが、物語上の影響力は薄い。
つまり、『マグニフィセント・セブン』はデンゼル・ワシントンが幻のように漂い続け、特権的な位置で映画を支配している作品なのである。ここに、フークアの真の作家性を見出すことができないだろうか。つまり、フークアにとっての映画とは、絶対的なスターの魅力を引き出し、観客を陶酔させる魔法なのである。そして、映画の黎明期から変わらないスターの存在感は、スポンサー主義に流されつつあるハリウッドの中で、映画の根源と結びつく概念だ。ハリウッドの資本力の衰退とは逆説的に、フークアの作家性はますます重要度を増していく。まるで映画の守護者であるかのように。
思えば、『トレーニング・デイ』と比べて同じノワール調の『クロッシング』が精彩を欠く出来だったのも、群像劇というスタイルが根本的にフークアと相性が悪かったからではないか。フークアは『マグニフィセント・セブン』を完全なスター映画として撮影することで、自らの個性を刻み込んだ。最終的に『マグニフィセント・セブン』は、『荒野の七人』の魅力の多くを引き継ぎつつも、感触としては全く別物になっているという不可思議な作品となっている。この拠りどころのなさがフークア作品であり、安直な現代性や社会性に逃げ込まない姿勢にこそ好感を覚えてしまうのだ。
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