エンターテイメントではない愛の痛み 『モン・ロワ 愛を巡るそれぞれの理由』レビュー

映画にせよ、小説にせよ、ポップミュージックにせよ、愛をテーマにした多くの作品が無条件に愛を肯定し、愛にまつわる諍いですらも大切なものであるかのように取り扱っている。そして、スクリーンに映る美男美女のスターは、愛に傷つき涙する姿でさえ観客を魅了する。最新のメイクとブランドを身に纏いながら。そう、愛とはこれほどまでにエンターテイメント化されたコンテンツとして、我々の社会に転がっているのだ。
愛の痛みを痛みとして描くこと
もちろん、愛の実態はそんな代物ではない。優れた映画作家たちは愛の痛みを、「だからこそ美しい」などとエクスキューズすることなく、文字通りの痛みとして表現してきた。フランスの映画史を見渡せば、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォー、クロード・シャブロル、レオス・カラックス、彼らの監督作品は今もなお、愛という地獄を観客に叩きつけてくる。そして、マイウェン監督『モン・ロワ 愛を巡るそれぞれの理由』(3月25日よりYEBIS GARDEN CINEMA 、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国順次公開)も彼らの系譜に連なる、美化がされていない愛についての映画だ。?
クラレンスとアラバマがいない世界で
スキー中の事故により、膝を負傷してリハビリ施設に入院した中年の女性弁護士、トニー(エマニュエル・ベルコ)。医者とのやり取りをきっかけに、彼女の苦難に満ちた10年間の物語が回想されていく。
10年前、真面目なエリートとして生きてきたトニーは、青春時代の思い人、ジョルジオ(ヴァンサン・カッセル)と再会し、思い切った誘惑に成功する。初めて結ばれた夜、青色のベッドで抱き合う二人はまるで海の底にいるようだ。セックスとは世界から切り離された二人だけの世界であり、何者も侵犯することはできない。このうえない幸福を二人は味わう。
たとえば、ハリウッド映画であればセックスとは至上の愛の表現である。本作のように、繰り返される情熱的なセックス描写の数々は、二人の輝かしい未来を誓約するだろう。しかし、多くの人が知ってしまっているように、セックスとは愛情表現の一部でしかない。むしろ、セックスの相性がいいだけで愛の全てを知ったつもりになっていると大きなしっぺ返しをくらうことすらある。
クエンティン・タランティーノはかつて、オタク青年のクラレンスが映画館で出会ったアラバマという美女と恋に落ち、その日のうちにセックスをして運命の恋人となる映画、『トゥルー・ロマンス』(’93)の脚本を手がけた。『トゥルー・ロマンス』は大傑作に違いないが、それは夢物語の楽しさである。現実にはそんな愛などありえないし、あったとしても長くは続かない。ちなみに、アラバマですらも、青年の友人に雇われた娼婦だった。
?トニーとジョルジオもまた、クラレンスとアラバマのように、舞い上がった気持ちのまま結婚してしまう。しかし、『モン・ロワ』は非現実的な娯楽映画ではなかった。どこまでも現実的に、やがて二人の溝が広がっていく。
少年のような男と自信をもてない女
ジョルジオは無邪気にセックスを求めるばかり。そもそも彼の高級マンションにはサッカーゲームなど、少年っぽい趣味が垣間見えていた。アルコールやドラッグへの依存も人間的に歪んでいるというよりはむしろ、精神的な幼さを感じさせる要素だ。弁護士として手堅く生きてきたトニーとは本来、趣味や考え方が違いすぎた男である。しかし、ジョルジオはその差を埋める努力をしない。それどころか精神的に不安定な元恋人の世話を焼き、一人になりたいときのため近所に別の部屋を借りて、トニーのフラストレーションを募らせる。ジョルジオの愛情が冷めたのではない。ただ、彼は愛の辛さや苦しみ、煩わしさを直視できないだけなのだ。社会的には中年のエリート経営者だが、心は少女マンガに胸を焦がすティーンエイジャーのよう。愛の美しい一面しか目に入っていない。
トニーが一方的な被害者なのかといえば、そうとも言い切れないだろう。本来的には地味な女性だったトニーは、派手で享楽的なジョルジオの仲間たちにコンプレックスを抱き続ける。自分に自信がないからこそ、トニーはジョルジオの言動に揺さぶられてしまう。それがトニーを憂鬱な気持ちにさせるのだ。
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