【考察レビュー】アラン・ドロン作品をもう一度!『太陽がいっぱい』の“太陽”とは何だったのか

先日、映画界を代表するあるスターの引退が発表された。1960年代から1980年代を中心に活躍し、その二枚目っぷりで一世を風靡したフランスの俳優アラン・ドロンだ。御年81歳の彼は、残り1本ずつの映画と舞台の仕事を最後に引退することを表明した。
そんなアラン・ドロンの代表作と聞いて、みなさん何を思い浮かべるだろうか。エドガー・アラン・ポー原作のオムニバスホラー映画『世にも怪奇な物語』。犯罪映画『危険がいっぱい』。当時のイタリアの厳しい現実を4人の兄弟を主人公に描いた『若者のすべて』。端正だがどこか危険な香りもするルックスを生かして、サスペンスや犯罪映画にも多く出演したアラン・ドロン。名作を数えればきりがないが、この作品を真っ先に挙げる人は少なくないはずだ。1960年に公開された『太陽がいっぱい』である。
【注意】
この記事には、映画『太陽がいっぱい』のネタバレが含まれています。
『太陽がいっぱい』あらすじ
舞台はイタリア。街角のカフェに2人の青年が腰かけているところから物語は始まる。
彼らは大富豪の息子フィリップと、彼の父親にアメリカへ連れ戻すよう頼まれた貧しい青年トム。トムはフィリップの父親から謝礼金をもらってはいるものの、フィリップは帰る気配をいっこうに見せず、トムは手持ち金を使いきってしまう。彼らはフィリップの恋人マルジュとともにヨットで沖へ出るが、トムはフィリップの傍若無人な態度に憤りを募らせ、彼を金目当てで殺害してしまう。完全犯罪を達成したかにみえたトムの殺人だが、最後には思いもよらない結末が待っている……。
タイトルにもなっているトムの「太陽がいっぱいだ」というセリフと、さんさんとふりそそぐ太陽の光のもとフィリップの遺体が現れるラストシーンは映画史に残る名シーンではないだろうか。
アラン・ドロン演じるトムによる殺人劇を描いた『太陽がいっぱい』は、巧妙に仕組まれた完全犯罪を描いたサスペンス映画として知られているが、きっとこれからご紹介する見方で観ればまた違った解釈になることだろう。今回は『太陽がいっぱい』を、“同性愛を扱った映画”として改めて考えていきたい。
原作はパトリシア・ハイスミス
この『太陽がいっぱい』の原作は1955年に出版された『The Talented Mr. Ripley(邦題:太陽がいっぱい)』だ。著者はパトリシア・ハイスミス。彼女はアメリカ人の作家で、主な著書に1952年に出版した『The Price of Salt』が知られている。この小説の邦題は『キャロル』、2015年にケイト・ブランシェットとルーニー・マーラの主演で製作された映画『キャロル』の原作である。1950年代のアメリカを舞台に、2人の女性の切なく美しい恋を描いた物語だ。
パトリシアによる『太陽がいっぱい』は、アラン・ドロン主演の1960年の作品だけでなく、実は後にもう1回映画化されている。それが1999年に公開された映画『リプリー』である。主演はマット・デイモンとジュード・ロウだ。
この映画でもマット・デイモン演じる主人公トム・リプリーが、大富豪の息子ディッキー(『太陽がいっぱい』のフィリップ)を手にかけてディッキーに成り代わる。しかし、この『リプリー』の方が『太陽がいっぱい』より、原作に忠実に作られているのだ。また『リプリー』では、トムがディッキーに“友情以上の特別な感情”を抱いていることがよく分かる。トムが同性愛者であると、はっきり描かれているのである。そう、『太陽がいっぱい』の主人公トム・リプリーは、ストレートな男性では決してないのである。
しかし、1960年の『太陽がいっぱい』では、「トムがフィリップに特別な感情を抱いている」「トムはゲイ、もしくはバイセクシャルである」といったことは明確には描かれていない。映画『キャロル』でも描かれていたが、1950~60年代はまだ同性愛が“犯罪、精神病”として扱われる時代であったからだ。だからおおっぴらに「トムはフィリップに友情以上の好意を抱いている」とは当然記されていない。
しかし『太陽がいっぱい』にも、しっかりと同性愛のメタファーが隠されている。そのメタファーについて順に考えていこう。
『太陽がいっぱい』でのメタファー
冒頭、街角のカフェのシーンでフィリップがトムに使いっぱしりを頼むシーンがある。彼の恋人、マルジュに贈るフラ・アンジェリコの画集を買いに行くシーンだ。その後彼らは不謹慎なことに盲人のものまねをし、若い女性をひっかける。女性といちゃいちゃするフィリップの横から“おこぼれ”にあずかるトム。フィリップと彼の付き人のようなトムの関係性が見て取れる。
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