【考察レビュー】アラン・ドロン作品をもう一度!『太陽がいっぱい』の“太陽”とは何だったのか

そしてマルジュに画集をわたし、フィリップに部屋から追い出されるトム。このシーンでびっくりした人も多いはずだ。トムがフィリップの服を着て、鏡に映る自分自身にキスするようなまねをするからだ。ここでは鏡にうつる自分とはいえ、“男性同士のキス”が描かれている。
そのあとヨットに乗り込み、フィリップとトム、マルジュは沖へ出る。フィリップが青いシャツを着ているのに対してトムはピンクのシャツ、まるで対になっているかのようだ。フィリップがトムの手をとってテーブルマナーを教えるシーンでは、マルジュが「邪魔なら私がおりるわ!」と言う始末。女性がやきもきするほど、トムとフィリップはやはり“ただの友人同士”ではないという風に描かれているのである。
その後もトムは、フィリップがマルジュといちゃつきはじめれば邪魔するかのように船を乱暴に動かしたり、マルジュにフィリップを疑わせるためにフィリップのポケットに別の女性のイヤリングを忍ばせたり……。3人でいるときもマルジュに色目を使うのではなく、フィリップに対して上目遣いの視線を送っている。その瞳はまるでご主人様を伺う子犬のようである。その視線からすると彼はマルジュに気があるのではなく、フィリップを奪われていることへの嫉妬で2人の仲を引き裂きたがっているように見える。
しかし、そんなフィリップに貧乏人扱いされ、「下品だ」とも言われ、トムはさんざんな扱いを受けてしまう。そうして彼は、ついにフィリップを殺害するのだ。
「太陽がいっぱいだ」の意味とは
“特別な感情”を抱いていたとはいえ、トムはフィリップを殺してしまう。トムは本当に財産目当てだけだっただろうか? おそらくトムは貧乏人からの脱却はもちろん、フィリップそのものになりたかったのではないだろうか。
フィリップを殺害したあと、トムは完全犯罪を達成するべくフィリップに成り代わって生活をはじめる。しかし彼を殺す前から、トムは勝手にフィリップの服や靴を身につけたりと「フィリップになりたい」願望を見せている。またフィリップを殺したあと、トムはその財産以外にもう1つ彼の所有物を手にする。マルジュだ。マルジュのことも誘惑し、トムは見事に手に入れてしまうのだ。そうしてフィリップが自分とは共有してくれなかったものを、トムはすべて自分のものにしてしまうのである。
ラストシーン、海岸に寝そべりながらトムはあの有名なセリフを口にする。「最高の気分だよ。太陽がいっぱいだ」。この太陽とはどんな意味があるのだろうか。金? 女? 新しい生活への希望? 夢? なにが彼のなかで“いっぱい”になっているのだろうか。
フィリップを殺す前、3人でヨットに乗っている時に、フィリップとマルジュのいちゃつきを邪魔したトムはフィリップによって小さなボートに乗せられ、ヨットから一瞬追い出されてしまう。カンカンの熱い太陽に焼き照らされるトム。背中は日焼けして火傷を負うようなありさまだ。しかしこの時はトムにとって“フィリップからの興味を一身にうけている”瞬間であった。どんな感情であっても、フィリップからの自分に対する感情をじりじりと感じられる瞬間であったのである。きっとラストの海辺でのシーン、トムはあの時と同じ熱い太陽を見てフィリップを思い返していたことだろう。きっとトムの中は“自分の特別な人でいっぱい”であったに違いない。
そうした矢先、海からフィリップの遺体がひきあげられる。ヨットの中でトムはこんなことも言っていた。「俺たちは地獄まで一緒だ」。完全犯罪が壊れてしまった今、トムには刑務所生活が待っている。まさにフィリップの影と共に“地獄行き”なわけである。自分の言ったことが現実になったのだ。
『太陽がいっぱい』。アラン・ドロンの美しく危うい魅力を堪能できるサスペンス映画だが、1人の男の叶わない恋を描いた、愛憎入り混じる作品とも解釈できないだろうか。
時代と共にLGBTの描かれ方もどんどんと変化していく。同性愛を堂々と描いてはいない時代だからこそ、こういった隠れたメッセージを考えてみることも映画の楽しみの1つではないだろうか。引退を表明したアラン・ドロンの作品にもう一度触れようと考えている方は、ぜひ『太陽がいっぱい』を観返す際、今回ご紹介したポイントに注目しながら、じっくりとご覧になって頂きたい。
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