ロドリゴとデズモンド ─『ハクソー・リッジ』『沈黙 -サイレンス-』でアンドリュー・ガーフィールドが演じた2人の男の違いとは?キリスト教の見地から

いまだかつて、同じ年に出演した2つの作品において、これほどまでに共通点のある特徴的な役柄を演じた俳優はいただろうか?その俳優とは、アンドリュー・ガーフィールド。彼は、『沈黙-サイレンス-』(2017)と『ハクソー・リッジ』(2017)という異なる作品で、“日本の地”で、”神の声”を聞こうとする男を熱演した。
『沈黙-サイレンス-』の主人公ロドリゴはイエズス会の宣教師で、信仰を捨てるかどうか激しく葛藤する。『ハクソー・リッジ』の主人公デズモンドは、志願兵になりながらも、宗教的立場から銃を持つことを拒否する。
江戸時代初期の長崎と、第2次大戦時の沖縄。時代は違えど、ハリウッド映画において日本が物語の舞台となり、同じくキリスト教を信仰している者が主人公となる。これだけでもレアな設定なのに、演じる役者が同じだとは。『ハクソー・リッジ』を鑑賞している間、私はずっと『沈黙-サイレンス-』のロドリゴのことを思い起こしていた。
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カトリック/セブンスデー・アドベンチスト
『沈黙-サイレンス-』のロドリゴも『ハクソー・リッジ』のデズモンドも敬虔なキリスト教徒であるという点は共通しているが、宗派は全く違う。ロドリゴはカトリックで、デズモンドはプロテスタント系のセブンスデー・アドベンチスト教会だ。セブンスデー・アドベンチストは特殊な宗派で、人によっては異端とすることもある。
カトリックとプロテスタントの大きな違いを大雑把にいうと、教会の権威を認めるか否かだ。カトリックではローマ教皇をトップとした司祭を中心に、教会の権威と伝統のもとで信仰を育む。聖書だけではなく聖伝も尊重され、告解(懺悔)や堅信といった儀式(秘跡)が複数あるのも特徴。マリアや聖人など、信仰心の強い人間も信仰の対象となることがあり(尊敬といった意味合いが強いが)、信仰の対象を像や絵画などに描いたりする。
『沈黙-サイレンス-』で、キリシタンたちが司祭であるロドリゴを異様にありがたがったり、マリア信仰が強かったり、ロドリゴの身に着けているものを欲しがったりしたのは、カトリックのこうした特徴に基づく。プロテスタントであれば、そういった反応はあり得ない。
これに対してプロテスタントは、カトリック教会の権威に抗議する形で生まれた宗派なので、教会の権威を認めない。教会とは信仰を持つ者の共同体という考え方で、聖書に記されていることのみを信仰の基盤とする。従って、聖書に記載されているもの以外の儀式は行わないし、マリアなど人間も信仰の対象とはならない。信徒は神と直接対峙する存在であり、基本的には個々の解釈が重要となる。従って、プロテスタントの宗派は自由主義的なものからガチガチの原理主義まで、多様に枝分かれしている。
デズモンドが信仰しているセブンスデー・アドベンチスト教会は、基本的な教義はプロテスタントと同様であるものの、休息日を土曜日としていたり(普通は日曜日)、一部かなり極端な独自の解釈を持っていたりする。これら独自のポイントを認めるか認めないかで「異端」と判断するかどうかが分かれてくるのだが、少なくともセブンスデー・アドベンチスト教会はラディカルで危険な宗派というわけではない。個人の信仰を重視しており、幼児洗礼すら認めていないが、他のプロテスタントの宗派はもちろん、ローマカトリックにも理解を示しており、多宗派への移動も制限していない。(なお、近年カトリックとプロテスタントは互いに認め合い共存していくという大きな流れの中にある)
デズモンドも同じで、自身の主義を頑なに主張する一方で、他者の行動については意見も干渉もしない。ロドリゴが、司祭としての自分の影響力や、フェレイラの意見、またバチカンの判断を強く気にしていたのとは対照的だ。
葛藤/盲進
『沈黙-サイレンス-』のロドリゴは、高い理想と信念を持って日本にやってきたが、迫害に苦しむキリシタンたちや、日本風にアレンジされたカトリックの教えを目の当たりにして苦悩する。自分のせいで人々が苦しんでいるのでは?結局のところ、正しいキリスト教を根付かせることは不可能なのではないか?そういった葛藤は執拗に彼を苛み、当初抱いていた彼の信念は大きく揺らいでいく。