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捉えきれないアマゾンの生命、超える時空『彷徨える河』レビュー

コロンビア映画界の新鋭、シーロ・ゲーラ監督による長編第三作目である本作『彷徨える河』。

第68回カンヌ国際映画祭 監督週間アートシネマアワードを受賞、第88回アカデミー賞外国語映画賞コロンビア代表としてもノミネートされ、数々の映画祭を賑わせてきた。

あらすじ

アマゾン川奥地の流域に、部族最後の生き残りとして孤独に暮らす流民である呪術師・カラマカテ。
ある日カラマカテの元を、重篤なドイツ人民族学者・テオが連れとともに訪れる。白人を忌み嫌うカラマカテだが、病を治す唯一の手段である、幻の植物「ヤクルナ」を求め、ともに旅に出る……。

数十年後。

年老い、孤独によって、記憶も感情も失ってしまったカラマカテの元を、ヤクルナを求めるアメリカ人植物学者・エヴァンが訪れ、カラマカテは再び旅に出る……。
原始としての自然と文明が出会い、二つの時が交錯し、聖なるジャングルと、大いなるアマゾン川が彼らを結ぶ。

自然の呼吸

http://samayoerukawa.com/introduction/
http://samayoerukawa.com/introduction/

スコープサイズの画面いっぱいに捉えられた、ざわめくジャングルの木々と、雄大なアマゾン川。
いや、これには語弊がある。捉えられているようで、捉えきれてはいないのではないだろうか。いや、捉えきれるハズもない。
本作におけるジャングルやアマゾン川の存在は、単なるロケーションとして機能するだけのものではなく、絶えず息づき、絶えず変化し続ける。劇映画における舞台装置(ロケーション)がこれほどまでの“生命”を見せてくれたことがあったか。
この、舞台装置(ロケーション)の“生命”の呼吸が感じられる作品は、たしかに数多くあるだろう。風光明媚な山々や、のどかな海辺での光景など、舞台装置(ロケーション)として機能する自然にキャメラを向ければ、その呼吸は感じられる。もちろん、自然界そのものに主題を見出すネイチャードキュメンタリーなどはその最もたるものだろう。
本作『彷徨える河』では、先住民であるカラマカテと、二つの時代にそれぞれやってくる二人の西洋人の視点とを介して、私たちはこの大自然と出会う。
「動物も植物もジャングルのもの。女との接触は月の変化を待て。」「川の流れに従え。」と自然を敬い重んじる先住民カラマカテは自然そのものでもあり、そこへこの自然を未開の地とみなし外界からやってくるテオ、エヴァン。
個人にとってのホームとアウェー。内部と外部。私とあなた。出会いと、それぞれの視点の違い、差異が、どちらか片方の視点にだけ寄ることはなく、ジャングルやアマゾン川の本来持つ多様性を汲み取る。

また本作におけるモノクロームの効果は、キャメラというフィルターがあることで、損なわれてしまう恐れのあるジャングルやアマゾン川の色彩やリアリティを制御、あるいはジャングルやアマゾン川の強すぎる主張を抑制する。
映画史に“ジャングル映画”というジャンルを打ち立てるならば、かつてのそれらはストーリーもさることながら、毒々しさに満ちていた。
本作に見る、深淵と神秘性は、視点の差異、現実感を制御するモノクロームから生まれ、捉えきれない“生命”となるのだ。

川と時空

http://eiga.com/movie/84039/gallery/2/
http://eiga.com/movie/84039/gallery/2/

アマゾン川にキャメラを向けても、当たり前のことだが、その全体像は掴めない。
山でも海でも、広大なロケーションであれば当たり前だろう。

川は絶えず流れる。右から左へ。左から右へ。前から後ろへ。後ろから前へ。
キャメラを据える位置により、その方向は変わる。
2秒前にはフレームの外にあった川の水は、今この瞬間にフレームの中心にあり、そして2秒後にはフレームの外へ流れていくだろう。
絶えず流れる川は、何も変わらぬフリをしていながら、恐ろしく変化し続ける。
キャメラを向け切り取った世界は、2秒後(2秒というのはもちろん例えばの話)には全く違う世界へと変わっているのだ。
それはまさに本作の、同じ瞬間に存在しているかのように流れる、二つの時のようだ。

Writer

Yushun Orita

『映画と。』『リアルサウンド映画部』などに寄稿。好きな監督はキェシロフスキと、増村保造。

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