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あなたは『たかが世界の終わり』をどう観る?新約聖書『放蕩息子のたとえ話』から読み解く考察

カナダの若手監督グザヴィエ・ドランの新作『たかが世界の終わり』。『Mommy/マミー』や『わたしはロランス』などで高い評価を受けてきたドラン監督が今回挑戦したテーマは、”家族”。それも、ハートウォーミングなほのぼのとした家族ではない。ドランが描き出したのは、閉塞感と緊張感で心身ともに削り取られるような、容赦のない家族の関係だった。

『たかが世界の終わり』あらすじ

劇作家のルイは、実家を出てから10年間以上会わずにいた家族に自分の余命が短いことを告げるため、飛行機で故郷にやってきた。ルイを迎えたのは、母マルティーヌと10歳ほど年下の妹シュザンヌ、粗野な性格の兄アントワーヌと、その妻カトリーヌの4人だった。久々の再会にも関わらず、家族間にはぎこちない空気が漂い、繰り返し衝突が起きる。ルイは話を切りだそうとするものの、なかなか言い出すことができない。

【注意】

この記事には、『たかが世界の終わり』に関するネタバレ内容が含まれています。

モチーフは【放蕩息子のたとえ話】

『たかが世界の終わり』の原作は戯曲。そして、新約聖書ルカによる福音書15章11~32に記されている「放蕩息子のたとえ話」をモチーフにしている(はず)。

2人兄弟の弟が、父から相続予定の財産を受け取り家を出る。弟は放蕩の限りを尽くして財産を使い果たし、食う物にも困るようになった。そこで弟は父親に謝罪し、雇人として受け入れてもらおうと思い立つ。父親は帰ってきた弟を遠くから見つけ、走り寄って接吻し、謝罪する弟に最高のもてなしをした。それを知った兄は激怒し、ずっと父と一緒にいた自分よりも弟を優遇する父親に抗議するが、父親はこう諭す。「お前は私と共にいる。私のものはお前のものだ。だが、お前の弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。」

このたとえ話の父は、神だ。そして弟は、弱き人間。神は深い愛により、悔い改めた人間を迎え入れるということを示している。しかし、『たかが世界の終わり』には父親が登場しない。父は既にこの世にいないという設定になっている。弟に嫉妬する兄は出てくるのに、父が出てこない。この歪みは本作になにをもたらすのだろうか?

それぞれの家族たちが抱く愛

© Shayne Laverdière, Sons of Manual
© Shayne Laverdière, Sons of Manual

ルイをはじめとする家族それぞれの表情をクローズアップで映し出していくことにより、炙り出されていく感情の機微。『たかが世界の終わり』で語られるセリフの多くは、核心に触れないまま流れていく。間の秒数まで細かく指定されていたという緻密な演技と、役者と異様に近い距離を保ちつづける映像とが描き出す世界に、何を読み取るかは観客に委ねられている。

あくまでも私個人の解釈だということを強調しつつ、家族それぞれの立ち位置や感情を振り返っていきたい。

唯一の他人:兄嫁カトリーヌ

ルイの兄の妻であるカトリーヌは、家族の中で唯一血がつながっていない人物だ。激情型のメンバーが多い家族の中にあって、ルイ同様に物静かなタイプ。常に周りを観察している。

冒頭でカトリーヌが見せるいくつかの言動により、観客はある程度の情報を得ることができる。まず、初対面のルイとのキスを躊躇する点。また、2人の子供を置いてきたことを、ルイに言い訳する点だ。10年以上も疎遠だった夫の弟に初めて会うというのに、子供たちを立ち会わせないのは不自然だし、その理由もどうでもいい類のものだった。子供たちをルイに会わせたくないというのが本音だろう。母のセリフによってルイがゲイであるということは既に明かされていたので、出会いの際にキスを躊躇した態度と合わせて「カトリーヌはルイをエイズだと思っている」ことが推測された(実際にルイの病がエイズかどうかはわからない)。

その後も、ルイに対して「あとどれくらい(時間が残っているの)?」と唐突に尋ねたりするなど、カトリーヌが近くルイに訪れる死を確信していると思われる言動はいくつか見られる。『たかが世界の終わり』の時代設定は2000年代はじめなので、今よりもエイズに対する偏見や恐怖が根強かった頃。カトリーヌの不安も無理のないものだったといえる。

しかし、カトリーヌはルイに怯えるだけの存在ではない。ほとんど言葉を発さないルイの心情を誰よりも的確に察し、深い同情を示す存在でもあるのだ。それは、家族の中で疎外感に苦しんでいる人間として、ルイの居心地の悪さを直感的に理解することができるからなのだろう。それでいて、夫がルイに対して抱いている嫉妬心についても十分すぎるほどに把握している。

冷静に家族を見つめるカトリーヌ。観客は、カトリーヌを通して多くの情報を得るような仕組になっている。弟ルイが黙ってしまうとき、兄アントワーヌが激昂するとき、母マルティーヌが無理に明るく振るまうとき、妹シュザンヌが当惑するとき、カトリーヌの表情が様々なことを物語る。

ルイを神聖視する妹:シュザンヌ

年の離れた妹であるシュザンヌには、家を出る前のルイの記憶がほとんどない。劇作家として成功した憧れの兄。ときどき絵葉書をくれる優しい兄の姿を想像し、今回のルイの帰還を心待ちにしていたようだ。普段はしない化粧をしてスタンばっていたのが可愛らしい。性格はルイとは違う直情型。感情がすぐに表に出るので、母や兄(アントワーヌ)との衝突が絶えない。

シュザンヌは、唯一ルイの帰還理由を想像していない存在だ。彼女は純粋に、ルイが家族に会いたいために帰ってきたと思っている。絵葉書の文面から受ける印象と同じように、満面の笑みでシュザンヌとの再会を喜び、あれこれと会話が弾むと信じて疑わなかったはず。しかし、ルイの反応は予想とは違っていた。それほど自分に興味を抱いていない様子のルイを見て、少なからず落胆するシュザンヌ。

さらに、彼女は不可解な他の家族の態度を見て困惑し、苛立ちを募らせていく。そして、そんなシュザンヌの様子から、兄アントワーヌの家族の中での立ち位置が明確になっていく。シュザンヌはアントワーヌに反抗し、崇拝しているルイに対するのとは対照的な態度をとっているのだ。

気付かないふりを続ける母:マルティーヌ

ドラン作品において、母親は重要な意味を持つ。『たかが世界の終わり』にも個性的な母親が登場する。ルイの母マルティーヌは、明るくおおらかな雰囲気の女性だ。場の空気が悪くなったらわざと明るく振る舞い、踊りだしてまで和やかムードを演出しようとする。しかし、マルティーヌが敢えてそうしていることは明白だ。おそらくマルティーヌは、ルイの死期が近いことに気付いている。そういった原因でもないとルイが帰ってこないことを知っているのだ。ほとんど本音を口にしないマルティーヌの心情まで見事に表現していたナタリー・バイの演技は見事だった。

本音を隠し続けているマルティーヌが、ルイと2人で語り合うシーンが一か所だけ登場する(といっても、ほとんどマルティーヌが一方的に話している感じなのだが)。マルティーヌは、本当ならばルイに家長になってほしかったこと、妹と兄にいたわりの声をかけてほしいことを伝える。このお願いの裏に「本心でなくてもいいから」というニュアンスが込められているのがつらい。マルティーヌは、ルイに踏み込むことができない。「あなたのことは理解できないけれど、愛している」というマルティーヌの言葉は、本作を貫くテーマでもある。

強い嫉妬と深い愛:兄アントワーヌ

兄アントワーヌは、本作の中で最も粗暴で不愉快なキャラクターだ。最初から不機嫌で、なんでもない発言に激昂し当たり散らす。妻カトリーヌはアントワーヌに対してビクビクしているし、妹シュザンヌは明らかに軽蔑している。母マルティーヌはどこか諦めているようだ。

途中、カトリーヌの口からアントワーヌの心情がルイに伝えられるシーンがある。ルイが家を出た後、アントワーヌは自分を認めてくれない母にずっと寄り添い、結婚し子供までもうけた。それなのに、母と妹は久々に帰ってきた弟を歓待し、自分には文句ばかり。妻すらも弟にシンパシーを感じている様子。そりゃあ、やりきれないよな……と、【放蕩息子のたとえ話】を思い浮かべつつ、アントワーヌの嫉妬も無理はないと思わせられるが、本作が描いていたのはそれだけではなかった。

弟と2人で車に乗り買い出しに行くシーン。遠回しに打ち明け話を始めようとするルイに対して、アントワーヌは異常に怒る。「お前のそういうところが嫌いだ」と我を忘れるアントワーヌ。そして、アントワーヌはルイに対し、かつてルイの恋人だった少年が死んだことを告げる。私はこのときに初めて気付いた。「最初からルイは誰にも謝ったり感謝したりしていない」ということに。

『たかが世界の終わり』において、【放蕩息子のたとえ話】から抜け落ちている要素は、父親だけではなかった。弟の謝罪も抜けていた。ここからは完全に私の想像になるのだが、おそらくルイが家を出たのはその少年との恋愛が直接の原因になっていて、アントワーヌはそのことを知っている。ルイが少年のことをどれほど愛していたのかも。ルイの過去や秘密もひっくるめて家族を守り続けてきたアントワーヌ。そんなアントワーヌに対してすら、興味もなければ正面からぶつかる気もないルイのことをアントワーヌは許せなかったのだろうし、ルイの態度から彼の死期が近いことを確信し、絶望したはずだ。アントワーヌの怒りは、ルイへの憎しみとルイへの愛情の爆発だった。

声をかけて自分を認めてくれる父もなく、弟からの心からの謝罪もない。そんな状況で、【放蕩息子のたとえ話】の兄は、なにをよすがにすればいいのだろう?ルイに対する深い愛情と、深い絶望。私は、アントワーヌこそ本作の真の主人公だと思っている。

カトリーヌ同様、アントワーヌもルイがエイズを発症していると予想しているはずだが、終盤でついに打ち明けようとするルイの言葉を、アントワーヌは強引に遮る。それはルイに対する断罪であると同時に、身を挺して家族を守る行為でもあったろう。アントワーヌはこうしてずっと家族を守ってきたのだ。もちろん、ルイのことも。アントワーヌが決定的な言葉を遮ったからこそ、同情や嫌悪や永遠の別離の言葉ではなく、ルイは「次はきっと大丈夫だから」という母の愛の言葉を聞くことができた。母もまた、もう会えないことを分かっていながら、ルイにこう声をかけることができたのだ。

自分のために帰還した弟:ルイ

ルイはなぜ帰還したのか?家族に謝罪して受け入れてもらいたいから?きっと違う。彼は、自分に死期が近いことを受け入れられず、その気持ちのやり場を家族に求めたのだ。「妹と何を話せばいいかわからない」と電話口の相手に打ち明けるルイは冷たい。自分のことは受け止めてもらいたいと願っているのに、妹の気持ちを受け止める気はないのだから。シュザンヌがルイの反応を求めれば求めるほど、アントワーヌが苛立ったのも無理はない。

自分のことだけを考えて家族の中に舞い戻ってきたルイは、ラストで屋内に迷い込んだ小鳥と同じだ。覚悟もなく飛び込んできてしまったために、周りを傷つけ、自分も傷ついた。【放蕩息子のたとえ話】の肝は、愛と悔恨。激しく傷つけ合ってようやく、ルイは自分の傲慢さに気付き、家族の自分に対する愛の深さを実感したに違いない。

執拗なクローズアップで魅せる演劇

© Shayne Laverdière, Sons of Manual
© Shayne Laverdière, Sons of Manual

『たかが世界の終わり』は、戯曲の映画化作品だ。ワンシチュエーションで登場人物は限られ、緻密に考え抜かれたセリフの応酬がドラマを浮かび上がらせる。トップ俳優たちを贅沢に使い、彼らの表情をクローズアップで映し出すことで、舞台では表現しきれない細かい感情まで映し出す。

セリフは核心に触れるのを避け続けるので、ルイが何の病気なのか、過去になにがあったのかなど、本当のところは分からない。観客はセリフではない部分から色々な情報を読み取り想像するしかない。観る側に重い負担を強いるタイプの映画だ。

終盤のクライマックスシーン。アントワーヌとシュザンヌとマルティーヌが怒鳴りあい、カトリーヌは狼狽し、ルイが茫然とする嵐のような数分間にすべての感情が流れ込んでいく。しかし、そこにどのような感情を読み取るのかは、観客それぞれ異なるだろう。私はルイには傲慢さを、アントワーヌには深い愛を見たが、果たしてあなたは彼らに何を見るだろうか?

たかが世界の終わり:© Shayne Laverdière, Sons of Manual

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umisodachi

ホラー以外はなんでも観る分析好きです。元イベントプロデューサー(ミュージカル・美術展など)。

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