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「フツー」と「普通」のせめぎ合い!ジェイク・ギレンホール主演『サウスポー』&ブラッドリー・クーパー主演『二ツ星の料理人』

「フツー」はマイナスな感想か?

よく映画の感想について使われる言葉で「ご都合主義」、「ベタな展開」、「よくある話」というものがある。この手のワードで制作側が一番言われて傷つくだろうものは「フツー」ではないだろうか。

しかし、逆に「ご都合主義」がなく、「フツー」でない映画がこの世にどれくらいあるのかと考えてみる。実は、「ご都合主義」の映画はたくさんタイトルを思いつくのだが、「フツー」の映画となると、少し考えてしまう。そもそも映画を見終わった後で「フツー」と感じることがそんなにマイナスだとも思えない。「フツー」ということが、取り立てて目立った構造的欠陥もなく、退屈もせずに最後まで悪意を持たずに見られたということなら、それは十分に「優れた映画」の範疇である。

蔑称めいた「フツー」ではなく、「普通」の映画の話をしよう。『サウスポー』と『二ツ星の料理人』という、ほぼ同時期に日本公開されているアメリカ映画についてだ。いずれも、ハリウッドの男性スターが主役で、挫折を経験した後に再起する優れたプロフェッショナルの話であるという共通点がある。ただ、ストーリー的な共通点以上に、「普通」の映画というシルエットによって、二本の映画に似た印象を抱いてしまう。

ここでいう「普通」には多分に「ご都合主義」、「ベタな展開」、「よくある話」という「フツー」の領域のニュアンスも含まれている。しかし、こういった「フツー」の要素を、安定性がありドラマの要所を押さえているという意味での「普通」にまで昇華させている制作側の力量には敬服する。これこそがプロの仕事だとすら思う。そして、その中心にあるのはやはり、それぞれの主演俳優の求心力なのである。

「嘘」に「真実」を宿す二人のスター

『サウスポー』のジェイク・ギレンホールは、衝動的な生き方をするボクシングチャンピオンと鬼気迫る演技で肉付けしていく。キャラクター造詣にはラッパーのエミネムを参考にしたらしい(エミネムは本作のサントラにも参加している)。その肉体改造は、チャンピオンとしての鍛え抜かれた筋肉のみならず、失意の底でトレーニングを怠け、弛んだ横腹にもしっかりと反映されている。

『二ツ星の料理人』のブラッドリー・クーパーは天才といわれながらもドラッグと女遊びで破滅しかけた料理人を余裕綽々に演じる。『世界にひとつのプレイブック』(’12)や『特攻野郎Aチーム THE MOVIE』(’10)のセルフパロディとも言えそうな役柄だが、スターとは同じキャラクターをいくつもの映画で演じ続ける存在なのだから仕方がない。しかし、チョコレートケーキにガスバーナーを当てる手つきは、あるいは、英語とフランス語を混ぜた会話で厨房を制圧する姿は、紛れもなく一流シェフである。

映画におけるご都合主義は悪ではない。そういった普通さが、凡庸さが、陳腐さがあるからこそ、人は映画を愛するのである。しかし、ご都合主義に寄りかかってそれ以上の創作を放棄してしまったなら、「普通」は「フツー」に変わり、観客を白けさせてしまうだろう。これもまた凡庸な引用だが、よく映画作りとは「嘘を真実に変える」作業だと言われる。脚本だけではフィクション=嘘のままだが、映像に置き換えることによって嘘は具現化できる可能性が孕まれる。その可能性の追求こそが映画作りの醍醐味ではないだろうか。

ジェイク・ギレンホールとブラッドリー・クーパー、二人のスターは「フツー」と「普通」の狭間にある映画をその演技力とスター特有の魅力で「普通」の領域に押し戻してみせた。おそらく、資金が潤沢な映画の大半は「フツー」と「普通」のせめぎ合いによって生み落とされている(残念ながら、低予算映画の場合は「普通」を最初から諦めなければ現場が回らないことばかりだ)。その痕跡を見つけるのもまた、映画を見る楽しみだと思うし、そこで結果を残す俳優こそ、真にスターと呼ばれるに値する存在なのだろう。
彼らの「嘘」には「真実」が宿っている。

Writer

石塚 就一
石塚 就一就一 石塚

京都在住、農業兼映画ライター。他、映画芸術誌、SPOTTED701誌などで執筆経験アリ。京都で映画のイベントに関わりつつ、執筆業と京野菜作りに勤しんでいます。

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