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イーストウッドが現代に向けた問いかけ。『ハドソン川の奇跡』で描かれたテーマを掘り下げる、おすすめ書籍2冊

20091月、ニューヨーク上空で旅客機のエンジンに鳥の群れが激突し、破損するトラブルが発生する。サリー機長はハドソン川に緊急着陸する決断を咄嗟に下し、すべての乗客、乗務員の命を救った。英雄と称えられるサリー機長だが、待っていたのは事故調査員会による厳しい追求だった。コンピュータソフトによるシミュレーションによると、旅客機が空港に引き返すか、他の空港に緊急着陸したほうが遥かに安全だったというのだ。それに加え、エンジンが再稼動する可能性もあったという。あまりにも現場の感覚と違う調査内容に、サリー機長の心は揺らぐ。

クリント・イーストウッド監督最新作『ハドソン川の奇跡』は本国アメリカでも日本でもヒットを飛ばしている実話をベースにした人間ドラマだ。イーストウッドの重厚な演出、俳優陣の深い演技に関しては多くの人が述べてくれるはずなので、ここでは本作に関連付けられるであろう二冊の書籍を紹介したい。

『テロ』

テロ

まずは、元弁護士の推理小説家、フェルディナント・フォン・シーラッハ初の戯曲を書籍化した『テロ』である。本作は架空の自爆テロ未遂事件が題材だ。舞台はドイツ、7万人の観客がいるサッカースタジアムに向ってハイジャック機が急降下を始める。独断によって旅客機を撃墜した空軍パイロットは、法廷で殺人罪に問われる。164人の乗客を殺害した罪だ。

「そんなの無罪に決まっているじゃないか!」と多くの読者は考えるだろう。パイロットも自分の正義を疑わず、法廷で毅然とした態度を取り続ける。しかし、検察官が追求するのはパイロットの正義ではない。もしもパイロットの行為を許してしまったなら、「理由があれば殺人を犯しても許される」という論理が成り立ってしまう。法を守るためにはパイロットを有罪にするべきだと検察官は主張する。

そして、死んでいった乗客の「尊厳」を問題にする。7万人のために164人を殺す、という論理には人の尊厳が含まれているのか?その問いかけには弁護士ですら、強く反論できない。

旅客機と戦闘機、ノンフィクションとフィクションの違いはあるが、緊急の状況でパイロットが迫られる決断を描いた作品として、『ハドソン川の奇跡』に通じるものがあるはずだ。

『不屈の棋士』

不屈の棋士 (講談社現代新書)

もう一作は大川慎太郎著の『不屈の棋士』だ。将棋ソフトがトップ棋士を越えた、とアナウンスがなされる時代で、棋士のアイデンティティを11人のプロ棋士へのインタビューで浮き彫りにしていく一冊である。

将棋と旅客機ではなんの関係もないのではないかと疑問に思われるかもしれない。しかし、調査委員会がサリー機長に向ける追求と、プロ棋士が現在さらされている状況は非常に似ている。それは「デジタルと人間」という問題である。

プロ棋士は対局後、記者から「こんな手もあったのでは?」と聞かれることが増えている。記者がプロ棋士よりも筋が見えているわけではない。ソフトに対局を解析させて、レートが高かった手を述べているのである。プロ棋士からすれば「コンピュータなら可能でも、人間の頭脳で持ち時間内に思いつく手ではない」こともある。将棋ソフトは正確で精密な将棋をさすが、そこには心と心の駆け引きという、将棋の醍醐味が失われているのだ。

そして、サリー機長も人間の感覚にしたがって行った行為を、コンピュータ分析により咎められる。この反論ができないまま窮地に追い込まれていく理不尽さは、イーストウッドの映画に共通する「逃れようの無い闇」というテーマにもつながっていく。しかし、本作はクライマックスで希望を見せる。イーストウッドはデジタルエフェクトを駆使した本作でもなお、本当に大切なのは人の心を描くことなのだと教えてくれる。『ハドソン川の奇跡』に描かれた問題は、他のいかなる分野でも考えるべき事象ではないだろうか?

Writer

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石塚 就一就一 石塚

京都在住、農業兼映画ライター。他、映画芸術誌、SPOTTED701誌などで執筆経験アリ。京都で映画のイベントに関わりつつ、執筆業と京野菜作りに勤しんでいます。