【ネタバレレビュー】『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』は何を終わらせたのか ─ 『最後のジェダイ』再考から読み解く完結編

この記事には、映画『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』のネタバレが含まれています。
『スター・ウォーズ』という歴史
2015年、ウォルト・ディズニー/ルーカスフィルムの新体制による『フォースの覚醒』で続3部作が始まった時、すでに『スター・ウォーズ』には38年の歴史があった。オリジナル3部作『新たなる希望』(1977)『帝国の逆襲』(1980)『ジェダイの帰還』(1983)、プリクエル3部作『ファントム・メナス』(1999)『クローンの攻撃』(2002)『シスの復讐』(2005)、断続的に積み重ねてきた時間の長さだけでなく、映画史上における意義の大きさ、世界を熱狂させるポップカルチャーのアイコンとしての存在感、いずれも他に類を見ない巨大シリーズである。
それゆえに『スター・ウォーズ』続3部作は、シリーズそのものの歴史と対峙せざるを得なかった。もはや『スター・ウォーズ』というシリーズが歴史なのである。同じく長い歴史を持つ『ミッション:インポッシブル』『スター・トレック』を現代に甦らせたJ・J・エイブラムスは、その鮮やかな手腕を買われ、『スター・ウォーズ』復活という大仕事に着手。『フォースの覚醒』で彼が選んだのは、“歴史と対峙せざるを得ない”がために、まさしくオリジナルそのものである『新たなる希望』に回帰するという方法だった。
『フォースの覚醒』と『新たなる希望』ひいてはオリジナル3部作には、ストーリーのみならず、画面の構図や細部の表現まで、あらゆるレベルでの類似・引用・再現が指摘されている。偏執的なまでにオリジナルを追いかける姿勢は概ね好意的に受け止められたが、もちろんその限りではなかった。「オリジナルのコピーを観たいのではない」との声が上がったばかりか、創造主ルーカスからも「新しいものが何もない」と批判されたのである。もっともJ・Jは、のちに「過去を懐かしむ作品ではない」として自作の意図を明かしている。
「歴史をただ繰り返すのではなく、私たちの知る映画(『新たなる希望』)を、あの銀河系に実在する歴史としてとらえる物語を描きたかったんです。つまり、彼らはまだ善と悪が対立する場所に生きていて、過去の影響下で暮らしていて、父親や先人たちの罪と向き合っている。[中略]僕にとっては、“私たちの知る『スター・ウォーズ』に戻りましょう、そうすれば新しい物語を描ける”と言うような作品でした。」
J・Jからバトンを受け取ったのは、『最後のジェダイ』(2017)で脚本・監督を手がけたライアン・ジョンソン。『ブラザーズ・ブルーム』(2010)や『LOOPER/ルーパー』(2012)で作家性豊かなストーリーテリングを見せ、「ブレイキング・バッド」でのエピソード監督で高く評価された人物だ。ライアンは、J・Jの組み立てた“善と悪が対立している、過去の影響がいまだ色濃い場所で、先人たちの罪と向き合う”人々の物語だという根幹を再解釈し、さらに深める形で、しかし真逆のアプローチで創作に臨んでいる。

結論から言えば、『最後のジェダイ』は『スター・ウォーズ』ファンの間で激しい賛否両論を呼んだ。ルーク・スカイウォーカーを物語の中心に据えつつも、キャラクター性は長い時間を経て大きく変化しており、物語はおなじみのルーク像とは大きく異なるところから始まった。謎のままだった主人公レイの両親については「何者でもないジャンク業者だった」という回答を用意した。ファースト・オーダーの最高指導者スノークは、その正体を明かすことなく、部下のカイロ・レンにあっさりと殺されたのである。ファンの期待や予想の斜め上を行く展開は、少なからず怒りを買うことになった。
しかしながら筆者は、『最後のジェダイ』を大いに肯定する立場である。『スカイウォーカーの夜明け』について考える前に、改めて書き残しておきたいのは、いかに『最後のジェダイ』が『スター・ウォーズ』をしっかりと現代に甦らせ、そして未来に繋げようとしたかということだ。そして『最後のジェダイ』が提示した可能性は、『スカイウォーカーの夜明け』によって少なからず閉ざされたのである。
『最後のジェダイ』を改めて考える
「過去を葬れ。必要なら殺してでも」。これはカイロ・レンのセリフだが、しかし、この言葉こそが逆説的に象徴するように、『最後のジェダイ』は「絶対に過去は葬れない」ということを繰り返し、あらゆる側面から描き出す。『フォースの覚醒』で父ハン・ソロを殺したのに続き、カイロはルークやレイア・オーガナの殺害を画策。スノークを殺して最高指導者になったカイロは、“新しい世界・体制を作る”という動機によって悪役として自立した。しかし、実際にカイロが戦うのは自らのコンプレックスにほかならない。“過去”は変わらず自分の中にあり、それこそがカイロを苛立たせるのだ。
一方のルークは、冒頭こそ私たちの知らない人物像で登場するが、物語の中で変化し、最後には英雄としての自分を受け入れ、かつての勇敢さと高潔さを取り戻す。英雄ルークの失墜と復活を描いた『最後のジェダイ』は、クライマックスで塩の惑星クレイトに現れたルークがライトセーバーを構えたとき、マーク・ハミルの立ち姿ひとつで、あのルークが帰ってきたことをどんな言葉よりも雄弁に物語るのだ。もしかするとライアンは、俳優マーク・ハミルの身体に宿っているルークの歴史が、自身の手がけた脚本をさらりと凌駕することに早くから気づいていたのかもしれない。

そしてライアンは、『スター・ウォーズ』の歴史を現代に繋げることに極めて自覚的だった。まずは「フォースは万物を包摂する」という設定を活かして、主人公レイのアイデンティティをシリーズのあらゆる血縁から解放。“誰もがジェダイになりうる”という可能性を語った(それはジョージ・ルーカスがアナキン・スカイウォーカーに与えた可能性でもあった)。スノークの正体を『スター・ウォーズ』シリーズの何者かに繋げなかったことは、作品の世界を小さい枠組みに押し込めず、あくまで新世代の物語としての豊かさをキープすることに役立っている。
そんな物語の背景には、繁栄した街に根づく人々の格差、戦争を支える武器ビジネス、そして単純な勧善懲悪では割り切れない価値観など、まさしく現代の世界が抱える問題にオーバーラップする設定が配置された。言葉だけなら陰鬱だが、そのうえでライアンは、底知れぬパワーを秘めたレイが「何者でもない」こと、レジスタンスが人々の希望を爆発させる“火花”であること、ルークという伝説がなおも機能することを三本柱として、銀河の一人一人が希望の可能性であることを謳ったのである。
創造主ジョージ・ルーカスは、かつてベトナム戦争が激化する中で、神話論から着想を得て『スター・ウォーズ』を構想した。そうした起源を踏まえれば、現代の社会情勢と『スター・ウォーズ』という神話を織り合わせ、同時代へのメッセージを送った『最後のジェダイ』は、『スター・ウォーズ』の現代化として見事なアプローチだ。むろん完璧な作品ではないが、脚本や演出も非常に練られている。キャラクターを分散させ、複数の物語を同時に進行させる群像劇は、終盤に近づくにつれてテーマもストーリーもひとつに収斂する構造。40年の歴史を前提にキャラクターの経年変化を描く趣向や、独自性の高い映像美へのこだわりも含め、ライアン・ジョンソンの狙いは全編に詰まっていた。
『スカイウォーカーの夜明け』突然の急旋回
では『スカイウォーカーの夜明け』は、『最後のジェダイ』が試みたことをどう引き継ぎ、どう捨てていったか。まずは、『最後のジェダイ』が主要キャラクターの物語をしっかり前進させていたことも押さえておかねばならない。レイはルークとの訓練から自分の足で歩くことを試み、ダークサイドに引き込まれつつ、“何者でもない者”としてジェダイとしての覚醒に近づく。フィンは任務を通じて、元ストーム・トルーパーの(臆病なところもある)人物から、死を恐れない――そして命を落としてはならない――戦士へと変化していく。無鉄砲なパイロットのポーは、レイアやホルドと出会い、レジスタンスを率いる人物としての視野を獲得。カイロ・レンは先述の通り、新たな世界を目指すファースト・オーダーの新たな最高指導者に君臨した。ルークは去り、レイアは道を譲り、こうしてレジスタンスとファースト・オーダーの戦いは世代をひとつ下ろしたのである。
ところが、『スカイウォーカーの夜明け』は冒頭からいきなり急旋回を見せる。皇帝パルパティーンの復活だ。世代を下ろしたはずの物語に前世代そのものが甦り、固有の目的を得たはずのカイロは、再び事実上の“スノーク代わり”を意識して行動することになる。そして最大の問題は、“何者でもない”とされたレイのアイデンティティに「パルパティーンの孫だった、何者でもない者ではなかった」という新たな答えを付け加えたことだ。

ルーカスフィルムは『スター・ウォーズ』続3部作の構想をあらかじめ固めず、作品単位で物語を構想してきた。まさしくリレー小説的な構築だったわけだが、仮にリレー小説だったにせよ、前作のテーマごと捨てるという選択は邪道中の邪道だろう。しかし、ともかくフォースとジェダイをめぐる物語は再び血縁をめぐる展開となった。「レイがスカイウォーカーを名乗る」という結末は、もはや血縁から血縁への反転であることから逃れられない。けれども「スカイウォーカー」という名前を“血”から解放し、象徴や概念の領域まで押し上げるには、そうした呪いに縛られない「何者でもない者」が名を継ぐほかにはなかったのではないか(実際、前作のラストではそのテーマに足を踏み入れていたはずである)。
パルパティーンの復活により、ストーリー自体も歪になった。パルパティーンの復活と現在の脅威は、劇中ではほぼ説明されただけにすぎず、登場人物のドラマに緊張感を与え、克服すべき課題としての重みを持つ存在たりえてはいない。「パルパティーンが復活したので倒さなければならない」という急ごしらえの前提だけがモチベーションとなるため、ドラマとしての説得力をどうしても欠いてしまうのだ。
また「対パルパティーン」の構造重視ゆえだろうか、レイやフィン、ポーの物語をきちんと掘り下げる余地も少なくなった。3人そろって行動する展開はJ・Jのこだわりだが、軽口を叩いて関係性を示すことこそあれ、それは物語の強度に繋がっていない。むしろ、3人それぞれの物語は前作以前にまで巻き戻っているのだ。たとえばレイがダークサイドに墜ちうるという展開は『最後のジェダイ』に近い形で変奏され、フィンは元トルーパーの出自に引き戻され、ポーはまたもや作戦の指揮をうまくこなせないのである。
パルパティーン、復活の理由とは
なぜ『スカイウォーカーの夜明け』は、『最後のジェダイ』終了地点で築かれていた物語をそのまま収束に向かわせられなかったのだろう。パルパティーンを復活させなくとも、『ジェダイの帰還』をベースにしながら、カイロ・レンはベン・ソロに戻るのか、レイはジェダイとして完成するのか、フィンとポーはレジスタンスをそれぞれの立場から牽引するリーダーになれるのかという主題を、きちんと新世代の物語として描く方針もありえたはずである。
しかし筆者は、ここまで悪しざまに語ってきたものの、本作にパルパティーンが必要だった理由も想像できる。もちろん、『最後のジェダイ』の物語をきちんと前進させるという選択肢もあった以上、パルパティーンを復活させるのがベストだとは思えない。しかし冒頭に記したように、『スター・ウォーズ』続3部作はシリーズの歴史と対峙せざるを得ず、ましてや本作は「スカイウォーカー・サーガ」の完結編である。パルパティーンを倒すという筋立ては、J・Jが『フォースの覚醒』で自ら用意した「彼らはまだ善と悪が対立する場所に生きていて、過去の影響下で暮らしていて、父親や先人たちの罪と向き合っている」という課題にそのまま対応しているだろう。
おそらくはそのために、本作はジェダイとシスの長い戦いを終わらせるべく、シスの象徴パルパティーンを文字通りゾンビのように復活させた。そしてクライマックスで追い込まれたレイは、ジェダイたちの声を聞き、その歴史を背負ってパルパティーンを倒すのだ。「歴史をもって歴史を制す」という決闘は、まさに42年もの歴史を持つ『スター・ウォーズ』ならでは。それでこそスカイウォーカー・サーガを完結させられるとJ・Jは考えたのだろうし、その目論みだけを単独で見れば、ひとまずは成功しているように思われる。

その一方、レイがパルパティーンの孫になったことまでは説明がつかない。パルパティーンの登場には作劇的・作家的な必然性を見出しうるが、レイがパルパティーンの孫でなければならない必然性は見受けられないのだ。先述の通り、レイは“何者でもない者”のままでジェダイの歴史を背負えたはずだし、スカイウォーカーを継承できたはず。それどころか設定を変えたことで、『最後のジェダイ』で血縁から解放された物語とキャラクターは、再び血縁に引き戻されてしまった。
もともとレイというキャラクターは、『フォースの覚醒』で初登場した以上、既存の枠組みからは外れたところで“新たなる希望”を描けたはずのキャラクターである。それを既存の枠組みにわざわざ収め直したことは、『スター・ウォーズ』続3部作の意義を結果的に小さくしたのではないか。
軽視される物語と歴史
レイの出自に限ったことではない。『スカイウォーカーの夜明け』には、どうしても十分な必然性を見出せない展開と演出が散見される。たとえば、ランド・カルリジアンは本当に再登場せねばならなかったのか、あの役回りはランドにしか担えないものだったのか。レイのせいでチューバッカが死んでしまったかもしれないという展開、シスの言葉を翻訳するためにC-3POが記憶を失うくだりは必要だったのか。
実際のところ、チューバッカとC-3POには、ほとんど最低限の体裁すら整えられていない。チューバッカが死んでいない事実は観客にさっそく明かされ、さほど間を空けずに登場人物にも知らされる。また、C-3POの記憶は消えるが、結局はR2-D2によってあっさりと復元されるのだ。共通するのは、どちらもレイやフィン、ポーたちがほぼ葛藤せず、変化を示さないまま、状況が元通りになってしまうところ。これでは、事実上なにも起こっていないに等しい。必然性もドラマ性も抜きにして、おなじみのキャラクターを扱うことが、果たしてシリーズへの敬意といえるのだろうか。J・Jは今回も過去作品の視覚的引用と反復に取り組んでいるが、同じく表面的に扱うことを、本当に敬意の表れと呼んでよいのか。

さらにジョージ・ルーカスが『スター・ウォーズ』を構想した地点に再び立ち返れば、本作は大きな失敗を犯しているようにも思われる。さきほども記したように、『スター・ウォーズ』はベトナム戦争が激化する時代に構想された“戦争映画”だ(なにしろスター・“ウォーズ”である)。では、いくら主人公がフォースを操ることができるにせよ、戦いの中で失われた生命を甦らせることを許してよかったのだろうか。
しかも本作は、回収しきれない要素を残したまま物語を終える。フィンのアイデンティティをめぐる物語は終着点を見つけられず、前半で強調される「フィンがレイに言いたいこと」が何だったのかも示されない。ポーには「元運び屋」という設定が与えられ、メインの3人全員が“何者でもない者”であることもアピールされるが、これまたレイに「パルパティーンの孫」設定を与えたために落としどころを失う。レイとカイロ・レンの物語には背骨が通っており――特にアダム・ドライバーはすばらしい演技で観る者を惹きつけるが――、その他のキャラクターや要素は宙吊りのままだ。
『スター・ウォーズ』の夜は明けるか
どうしてこんなことになったのだろう。すでに各所で原因は考察されているが、筆者もその多くと同じく、ルーカスフィルムが強力な舵取り役を据えないまま、続3部作を作品ごとに構想したことは大きな要因だと考えている。これによって続3部作は一貫したストーリーを獲得できず、それぞれの作品に美点はあるものの、全体的にはほぼ破綻した。スタジオ側の指揮を担ってきたキャスリーン・ケネディの責任は大きそうだ。
いずれにせよ『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』で、なんとか物語はまとまり、スカイウォーカー・サーガは終わりを迎えた。しかし、完結編には作劇にも演出にも難点が少なくなく、おなじみのキャラクターを丁寧に扱ったとも言いがたい。そして、『最後のジェダイ』がなんとか逃れようとしたオリジナル路線をふたたび志向し、レイの設定を書き換えて前作の試みをほとんど無に帰し、ファンサービスを散りばめ、結果として未来の芽を摘んだ……と書けば、さすがに言いすぎか。けれども本作には、42年間の――実に映画史の3分の1におよぶ――長寿シリーズを終わらせるにあたり、『最後のジェダイ』以降たった2年間ぽっちの批判にうろたえた痕跡すら見受けられるのである。
『スター・ウォーズ』に全員が満足できる結末はありえない、といわれる。それは作品が観客やファンの幼少期に深く関連しているからだし、観客それぞれが思う『スター・ウォーズ』の形が違うからだ。逆に言えば、そのような認識を抱かせてしまうほど、『スター・ウォーズ』とは私たちにとって重要な文化的財産なのである。しかし、それゆえにこそ、シリーズの完結とは「物語をまとめるだけ」ではいけなかっただろう。スカイウォーカー・サーガが完結する今こそ、これまでも重要だったシリーズを、今後も重要なものとして未来へ運ぶことを検討するタイミングではなかったか。少なくとも、ここ2年間の批判を受けて右往左往している場合ではなかったのではないか。
Wall Street Journalにて、ウォルト・ディズニー・カンパニーのボブ・アイガーCEOは「(新しくしていかないのであれば)博物館に保管し、古くなるのをただ見守るのと同じだ」と述べた。しかし完成した『スカイウォーカーの夜明け』は……まさしく、スカイウォーカー・サーガを博物館に保管するような作品となったように思われてならない。
映画『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』は2019年12月20日(金)より公開中。