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【レビュー】『灼熱』境界線に引き裂かれる男女、境界線を超えて響く音楽

11月19日から、イメージフォーラムで公開中のダリボル・マタニッチ監督作品『灼熱』。
公開からすでに時が経ち、筆者も観たのが2週間以上前になるが、遅まきながらこの『灼熱』という映画に見た“穏やかな灼熱の瞬間”を記しておきたい。

シネスコサイズの画面に捉えられた、満ち満ちる柔らかな陽光と、牧歌的で風光明媚な光景。
1991年―2001年―2011年、クロアチア紛争前後のこの三つの時間が、同じ場所を舞台に、同じ俳優たちによって描かれる。そもそも三つの時間、男女を中心として貫かれる情熱とはまさに“灼熱”そのものであり、筆者が冒頭に記した“穏やかな灼熱の瞬間”とは、なんとも支離滅裂な感じのする言葉かもしれない。しかし本記事では、牧歌的で風光明媚な舞台を捉えた、本作の映画としての“灼熱”に注目したい。

境界と動物たち

本作では、境界線というものの存在が常に意識させられる。それは道を遮る丸太や、有刺鉄線などの明確に引かれた境界線だけではなく、日常の些細な瞬間に見られる。

「マンダロリアン シーズン3」「アソーカ」解説

民族間の対立にそれぞれ引き裂かれた男女(本作における男女は、もちろんそれぞれが揺るぎない固有の存在でありながら、全ての男女の象徴だともいえる)は、時が経っても部屋と部屋とに隔てられ、家屋の階上と階下に隔てられている。“あの人”は近くにいるのに、いつも“何か越し”にいるのだ。自由のムードが漂う世の中になっても、一度引き裂かれた男女は、テーブル越しにしか会うことが叶わず、扉を隔てて涙を流すばかりである。

その一方で、あちこちに存在し、他者同士を隔てる境界線を軽々と越えていくのが、印象的に捉えられた動物たち、虫たちの存在である。ヒツジ、ネコ、ニワトリ、イヌ、クモ、アリ、ハエ。彼らは、ここに生きる人々とともにありながら、境界線を必要としないのだ。

http://www.vecernji.hr/film/pocelo-snimanje-mataniceva-novog-filma-o-tri-zabranjene-ljubavne-price-965341/multimedia/p4
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音楽による存在の証明

トランペットの高鳴りとともに幕を開ける本作は、音楽の印象が極めて強い。境界線により、完全に引き裂かれた男女の、叫びにも似たトランペットの響き。紛争終結後、廃墟と化した家屋や、忘れられたかつての生活用品たちを延々捉え続けるとともに流れる、テレーザ・ケソヴィヤの歌。日常の生活音によるリズムから男女が奏でる音楽。やがて自由なムードと、多種多様な人々や色彩に満たされた、激しいエレクトロダンスミュージック。

本作において、人々は存在の証明として音楽を必要とする。トランペットの高鳴りや生活から生まれる音楽は、物語の中の男女二人だけが共有できるものであり、多種多様な人々の間に響き渡る音楽は、そこにいる全ての人々が共有するものだ。これらに対し、廃墟と化した家屋を横移動ショットの連続でみせるシークエンスと音楽は、本作で最も異質なものである。紛争そのものを描かず、ドキュメンタリー的手法で紛争の凄惨さを見せる場面であり、ここで流れるテレーザ・ケソヴィヤの歌声は、唯一“物語世界外”から付与された音楽である。“物語世界外”とは、つまり私たち観客側のことだ。このシークエンスで、音楽は、紛争の生々しい惨劇の記録とともに我々観客と共有されるのである。ここで映画と観客の境界は越えられている。

このように音楽は本作において重要なポイントだが、映画の終盤で日の出とともに一匹の犬に導かれ、となり合う男女は、もはや人工的な音楽を必要としていない。柔らかな陽光の中、ひたすらにキャメラが見つめ続ける男女の姿、その表情とともにあるのは、境界線を必要としない動物や虫たちが生む、牧歌的で風光明媚な土地の、環境のリズムだけなのである。

Eyecatch Image: http://www.vecernji.hr/film/pocelo-snimanje-mataniceva-novog-filma-o-tri-zabranjene-ljubavne-price-965341/multimedia/p1

Writer

Yushun Orita

『映画と。』『リアルサウンド映画部』などに寄稿。好きな監督はキェシロフスキと、増村保造。

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